楽譜の向こう
音楽と楽譜はまるで対をなすもののように言われていますが、楽譜を読めなくても音楽活動をしている人はたくさんいます。楽譜は音楽の絶対条件ではないということは知っておく必要があります。むしろ楽譜に振り回されているなんてこともあるのです。
ことクラシック音楽に関しては楽譜は欠かせないものです。この点がクラシック音楽の大きな特徴です。まずは楽譜の習得から始めます。しばらくすると正確に楽譜が読めるような訓練になります。この時点では楽譜は有益なもの、便宜上のものなのかもしれません。あるいは作品を後世に残すための手段としても楽譜は有効なものですが、例外ももちろんあります。楽譜で音楽を伝えなかった日本の雅楽はマンツーマンで先人から直接の手ほどきを得て一千年の年月を伝えてきているので、楽譜は後世に伝える唯一の手段ではないのです。むしろ楽譜は時代によって解釈が異なったりするので、正確に伝えてはいないと考えることもできます。
楽譜を見ながら練習して、楽譜がなくても演奏できるほど弾きこむと、今度は楽譜のない世界に入ります。ただ脳裏には楽譜が消え隠れしている場合もありますから、全くなくなったというわけではありません。それに指遣いで覚えていることも多いです。ともあれ楽譜離れという時期もあるのです。
楽譜なしで、つまり暗譜で弾けるようになると、楽譜にしがみついていた時とは音楽が変わります。自分流の解釈からの、自分らしさという誘惑が大きくなります。自分が解釈した演奏というものですが、実はこれが演奏の世界では大変な課題を持った落とし穴なのです。
暗譜で弾けるようになって初めて音楽が自分のものになったと言えるのかもしれませんが、そこには驕りのようなものが潜んでいる場合もあります。そうなってしまっては音楽は元も子もなくなってしまうのです。自惚れたエゴの塊のようなつまらない演奏がそこで待ち受けています。
イギリス人で、ピアノ伴奏の分野で世界中から高く評価されたジェラルド・ムーアは、あるコンサートでシューベルトの野薔薇の伴奏を楽譜を見ながら弾きました。この伴奏はピアノを初めて一年も練習すれば誰でも弾けるようになるくらい簡単なものです。彼はアンコールで歌う歌手と一緒に楽譜を持って舞台に登場したのです。そして楽譜を広げて楽譜を見ながら伴奏したのです。次の日の新聞評には、「ムーア氏は未だに野薔薇の伴奏程度のものも暗部していないのか」と揶揄するような文章が載りました。晩年にムーア氏が自らのエッセイでこのことに触れ「私はシューベルトの精神に触れながら演奏するために楽譜が必要なのです」と答えていました。
宗教の儀式では、その宗教の聖典を読むということがセレモニーの中でよくあります。どの宗教にも共通しているのは、その聖典を目の前にして文字を読みます。暗唱ではなくテキストを前にして文字を読むのです。聖職者なら暗記しているはずのものでも、聖書の文字を読み上げるのです。理由はテキストと読み手の間に邪神、邪心が迷い込まないためだと言われています。
ムーアが楽譜を見ながらシューベルトの精神に近づこうとしている姿をどのように理解したらいいのか考えるのですが、彼の在り方は宗教の儀式と同じことだと言えるように思うのです。演奏しているときに、邪心、自分の奢りのようなものが入り込まないように、どんな簡単なものでも楽譜を目の前にすることで、却って無心になれるということなのかもしれません。
楽譜を読めるように練習し、だんだんと楽譜に忠実に演奏できるようになり、その次に暗譜で弾けるほどに作品を自分のものにする。実はそれで終わりではなく、その次があったのです。また楽譜に戻ってきて、今度は楽譜を通して楽譜の向こうに控えている作曲家の精神に触れながら弾く。
楽譜というのは暗譜するまでの練習のためのものというだけのものではないのです。楽譜を覚え始めた時と暗譜して楽譜など必要でなくなってから再び楽譜に戻ってくる。誰もが通り流れですが、初めての楽譜と再び戻ってきた時の楽譜とは同じものではないのです。再び戻ってきて楽譜を見ている時というのは楽譜を通して得られるインスピレーションを享受しているのだと思います。
楽譜というのは楽譜以上のものを秘めているということのようです。楽譜以上がわかるかどうかがいい演奏かどうかの分かれ目なのかもしれません。