見えていること、見えていないこと

2025年8月26日

オスカー・ワイルドはイギリスを代表する小説家、劇作家です。この人の言葉には現実を直視した鋭さを感じることが多く、ずいぶん読んだものです。

彼は「今、目の前に見えていることが一等不思議だ」という言葉を残しています。最近のオカルトブーム、スピリチュアルブームの考え方からすると、見えないものを尊重する風潮が強いわけですが、そうした中でこの言葉をもう一度噛み締めると、オスカー・ワイルドの感性がどれほど特殊なものかを感じます。表面的な言葉っじりを捉えれば唯物論者でないかという気がしてしまいますが、その程度の理解力では彼の言葉につきあう資格がないのです。そんなことはなく彼は現実を直視した上で神秘主義的な世界にも深く通じていた人だったのです。

神秘主義者を体現している人が「今目の前に見えていることが一等不思議だ」というのです。これはイギリス人が好むアイロニーを思わせるところもありますが、私にはそんなものだとは思っていません。真正面から現実に向かって切り込んでいる言葉と受け取れるのです。彼は本当に目の前にあるものに向かってそう思っていたのでした。

パウル・クレーというドイツの画家は「見えないものを見えるようにする」という姿勢で絵を描き続けました。見えないもののの存在に気づけば気づくほど見えるものが気になるようです。そして見えるものが不思議に見えてくるということのようです。

今は見えないことに興味を持つ時代です。なぜそうなってしまったのかは簡単に説明できないものです。ただ見えないものを追い求めても、それだけでは充分な神秘主義者ではなく、神秘主義を深めて行くと、逆に今見えていることを凝視することから、その奥が見えてくるものなのです。本質というのか実在というのかは言葉の表現の違いです。今、目の前に現れていることから目を逸らして、見えないことばかりを追っていると、それこそ見えない世界から騙されてしまうと言いたいのかもしれません。今、目の前にあるものを知ろうともせずに、見えないものを追っているというのは、実は本末転倒ということのようです。

シュタイナーも皮肉っぽく、唯物論者が一番物・物質のことを知らない人だと言います。

情報に取り囲まれているだけでなく、情報に振り回されている時代です。そうなってしまった時代の落とし穴は、人間そのものが情報として捉えられてしまうということです。結局社会的地位、ポジション、ステータス、資産がどのくらいある、そして学歴に頼りながら人を見てしまうわけです。人が人である所以とはなんなのかは問われることなく、情報処理されてしまった人が世の中を闊歩することになってしまうのです。そんな中で生き延びるためには、情報を集めるだけ集めて情報同士でこすりつぶすのです。いい情報フェイクな情報が混じりあっていますが、どれか一つを信じるのではなく(そうなっては情報宗教です)、幾つもの情報同士を並列に並べて眺めるのです。幾多の情報の中から全体像が見えてきたら物事が見えきたことです。そこで役に立つのが直感です。この直感は場数を踏むことで訓練され鍛えられるものです。

音楽に関していうと、録音という技術のおかげで現代は同じ作品を沢山の演奏家の演奏で聴くことができます。いろいろ聞いてみると、これが同じ作品なのかと思えるほど違う演奏に出会います。私は、これを「音楽が見えるようになった」ものだと思っています。ある作品が一人の音楽家の中だけで聞かれているうちは、それは見えない世界を彷徨っているかのように、聞こえない世界の消えてしまうのです。演奏されることで音楽は聞かれる音楽に変わります。それは見える音楽と言ってもいいような気がしています。私たちが生きている時代はたくさんの演奏を聞ける贅沢な時代なのです。幾つもの演奏を聞いた後にお気に入りの演奏が見つかるのですが、そこには大変な個人差が見られるものです。ただそれによって聞こえない音楽に帰っているのかもしれないのです。

見えたり見えなかったり、聞こえたり聞こえなかったり、数多の情報が混じり合う中で、私たちは私たちにとって真実と言えるものに出会わなければならないのです。今、目の前にあるものを凝視し、今、聞いている音楽に耳を傾け、情報のひとつ一つを吟味しながら向こうの世界を感じることができるのです。

たりになるのは直感のみです。

 

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