久し振りに音楽に出会えました

2024年7月19日

一昨日YouTubeに見知らぬピアニストの名前を見かけ開いて聞いてみました。

ロシアのピアニストでIgor Kotlyarevsky、イゴール・コトリャフスキーという、聞いたことのない名前でしたが、ロシアのピアニストは概ねハズレがないので実際の演奏が楽しみでした。

この動画はモスクワのテレビ局が放映したものをYouTubeにアップしたもので、演奏会はモスクワ音楽大学の小ホールで今年の5月に行われています。

演奏が始まってすぐに今まで聴いたことのないピアノの音に引き込まれてしまいました。聞く耳を疑ってしまうほどピュアな純粋な演奏だったのです。

演奏会のプログラムは、スカルラッティー、モーツァルト、シューマン、リスト、アンコールにスクルリャービン、ショパン、シューマンが連ねていました。

最初はスカルラッティーでした。よく演奏されるK466をこんなふうに聞いたことが今までなかったので、馴染みのあるメロディーだと思いつつ、本当にスカルラッティーかどうかを疑ってしまうほどです。

コトリャフスキー氏は体を微動だにせず、表情もほとんど変えずに演奏しています。指と鍵盤との出会いに全力で集中しているようです。俗な言い方をすれば丁寧な弾き方です。

何が私を引き付け、私を引き込んでゆくのかというと、彼の存在、生き様と音とが見事に出会っているところです。全く見事なのです。音を紡ぐようにピアノを弾いています。音楽の流れは静寂そのものです。こんなに静まり返った演奏は本当に久し振りだったので、初めの驚きはすぐに喜びに変わっていました。

久し振りにピアノを満喫している自分がいました。満たされて聞いているのです。こんな風に聞きたかったんだと独り言を言っていたかもしれません。それほど彼が紡ぎ出す音は私の心をとらえたのです。乾いた喉が潤わされるような感じでした。

一人の人間と音楽となった音が出会っている。驚くべき静けさの中でです。とても神聖なものを感じました。音楽を聞き貪っていた自分に知らず知らずについてしまっていた垢のようなものが、この演奏で清められてゆくのです。

音楽は現代ではビジネスとして欠かせないものです。数多の音楽会、若い音楽家の登竜門としてのコンテスト、盛大になっている音楽祭、音楽フェスティバル、音楽は産業的にみて巨大なお金を動かすものとして使われています。音楽は娯楽として書くつ訳していて素人バンドを組んだりして楽しんでいますし、医療としても、メディテーションとしても使われています。

そうした道具として使われている音楽から音楽が聞こえなくなることがあります。日本から帰ってきて、飛行機の中で体調を崩してその後しばらく遺症のようなものの中にいて、音楽のそうした道具として使われている姿に辟易していたのです。二月の京田辺の講演会の時に弾いたのを最後に、ドイツに帰ってからは一度もライアーに触れていませんでした。音楽が聞こえてこなかったのです。音楽がわからなくなっていのだです。

そんな中でのコトリャフスキーの演奏との出会いでした。乾いた砂に水が吸い込まれるように彼の演奏は私を潤します。真剣に聞き入ってしまいました。そしてなんと、またライやーを弾きたくなっていた自分がいたのです。久しぶりの感触に我ながら嬉しくなりました。とは言ってもまだ実際に弾いてはいません。ピアノとライアーの音質の違いもあるからです。

彼は音楽をフレーズとして弾くというのではなく、一音一音と対話しているようでした。どの演奏家も同じ楽譜を用いて弾いているのですが、みんな違う演奏になります。これが音楽が音楽である所以だと思っていますし、醍醐味でもあります。それでいいのですが、質の違いはどうしてもあります。質の違いを作っているのは、演奏がどこまで自分の思い込みから解放されているかだと思っています。音楽をも超え純粋に音に出会うためにはどんな能力が必要なのかと自問していました。演奏のための技術的な訓練から得られるものではないはずです。残念ながら天性であるのでしょうが、人間としての人格を作ることから生まれるものでもあるような気がします。一音一音を蔑ろにしない精神性です。全てのことに真摯に向かい合う姿勢です。

モーツァルトの演奏も初めて聞くモーツァルトでした。一番驚いたのはリストのピアノソナタです。今までも二度ほどコンサートで聞いたことがあって、その時の印象からすると、「なんともやかましい音楽」だったのに、彼の演奏は自己主張を抑えた静寂さに満ちているのです。静かなのに豊かな緊張感が演奏にはみなぎっているのです。決して情緒に流されることはないのです。私も演奏家の端くれとしていうと、この二つを両立させるのはとても難しいことです。

ということで、多くの人に彼の演奏を聴いていただきたいと思います。きっと人生観が変わるほどの体験になると思います。

豪華のそだたない日本

2024年6月27日

富裕層と呼ばれている超お金持ちがどんな人たちなのかちょっとだけ垣間見た気がした時の話しです。

贅沢を楽しんでいる人たちと言いたいところですが、その規模が想像を絶していて、滑稽に感じてしまうほどでした。特に印象的だったのはその人たちが日本について語っているのを聞いた時でした。彼らの日本への評価は意外なもので「ダサい、つまらない国」でした。旅行しても楽しくもなんともないらしいのです。彼らは別の価値観で生きているからです。私の周囲のドイツ人たちは決まって、一度は日本に行ってみたいというのですから正反対です。

一番高いホテルのスイーツは一度は泊まってみたい気もしますが、なんのためにと考えてしまうほどのお値段なのでやっていません。そんなお値段でも彼らには痛くも痒くもない額なのです。もっともっと豪華で居心地がいいお膳立てが彼らのお目当てのようなのです。私からすればけばけばした、いたせりつくせりの過剰サービスがして欲しいのです結局はどうってことはなく、特別な人間として扱ってほしいのです。

彼らには支出の金額など眼中にないのです。高額な支出の何倍、何十倍もの収入があるのですから、いくら一晩で使ったかが彼らのステータスで、高ければ高いほど、多ければ多いほど自慢することが増えると言うだけの話しなのです。

彼らにとって旅行は、まずはホテルは超豪華でなけば意味がないのです。最高の見晴らしで、高級感のある家具、調度品が取り揃えられている豪華スイーツ、お食事は三つ星のついたレストランでする。それこそが望ましい旅行なのです。いわゆるきんきらな華麗なる世界の中で満たされている様子がイメージできます。贅沢が生き甲斐ということです。自分を満足させるための支出が喜びなので、それをさせてくれない、地味な、わびさびを大切にする質素を自慢するような日本は野暮ったく、貧乏くさくうつるのでしょう。わびさびの極致は土壁で塗られただけの古ぼけた小さな茶室ですから、比べたくても比べようがありません。交わることのない二つの世界だと言うことです。

 

 

プレゼンテーションという言うのは、皮肉っぽく言えば自分を高く売るためのものと言えます。中には地味な研究成果を報告する貴重なプレゼンテーションのもありますが、今の経済を主軸にした社会では、表品価値をアヒールするというのが大きな目的です。いかに自分を高く売るかということですが、私が色々と経験したところでは、日本人が苦手にしているものの一つがこのプレゼンテーションです。

でいのいい自惚れ行為でもあるからだと思います。どこまで本当かわからないようなプレゼンテーションも多いてすし、はっきり嘘だとわかるような低級なものも結構あります。見本市などではそのような派手な自己のアピール合戦ですから、聞いていて疲れるだけです。

自国をプロパガンダで固めている国などはそうのような嘘は言いたい放題なのでしょう。そうしたハッタリが半ば許される環境でプレゼンテーションは生き生きとしてきます。聞いていて恥ずかしくなるほどですが本人たちは嬉々としてやっているのですから、正直呆れてしまいます。なぜ日本人はそれが苦手なのか考えてみるのも一興です。自己反省、自己分析というのも日本人があまり得意ではないものです。

 

犯罪心理学をやっている友人が、興味深いことを話してくれました。してしまった行為に対して刑が下り、刑務所に入った時に、彼はカウンセリングのような形で、その収容者に犯したことについて色々と聞くことを仕事にしていたということなのですが、彼が外国で勉強した時に、自分を振り返るという作業が、収容されている犯罪者たちの更生に役立つと習って、日本に帰ってきて実践している中で、「日本人には外国人に良しとされているものがそのまま役には立たない」ということに気づいたのだそうです。その一つが犯罪者たちに自分がなぜそんなことをしたのか、ということを問い詰めて、反省の機会を作ろうとする行為だというのです。「日本人にはこれをやりすぎるとかえって本人を苦しめることになってしまう」と感じたのだそうです。

アメリカやヨーロッパでは、言葉にして自分を整理するのが日常的に習慣になっていますから、当時留学中は実際にそれは更生に役に立っているようにも感じたのらしいのですが、日本人の場合はかえって逆効果があることを日本で改めて感じたのだそうです。

あまりペラペラ喋るのは良くないということのようです。アメリカや、ヨーロッパでは自分を説明するのが大好きです。「なぜならば」ということを説明してしまうのです。説明して納得しているのてず。これには初めてドイツで生活し始めた時にびっくりしたものです。本当かどうかは判断しきれないものですが、話しを聞いていて感じるのは「自己安堵にかけているような感じ」です。もしかするとこれが西洋がご自慢の「自我」なのかと思った時には「自我」は日本人には無理だと思ったほどでした。思い込みでしかないのではないか、そんな気がしたのです。自分って、言葉で説明したら、自分からどんどん遠ざかってゆくような気がします。言葉にすればするほど遠くに行ってしまうようです。

 

話を超贅沢な人たちに戻すと、全てではないのでしょうが、「足を知る」という歯車がかけているという感じです。贅沢のような欲望は、「もっともっと」がその本質です。どんどんエスカレートしゆくものなのです。プレゼンも見本市、メッセなどではどんどんエスカレートしています。嘘も方便という枠をはるかに超えていて、聞いてい恥ずかしくなるようなものばかりです。どこかでその悪き風習を止めたいものだと思うのですが、どこから手をつけたらいいのかわかりません。

ストイックについて

2024年6月24日

先日指揮者のことに触れた文章を載せましたが、今日はもう少し突っ込んでみたいと思います。

個人的に好きな指揮者をいうとアメリカのクリーブランド交響楽団の育ての親のチェコの人、ジョージ・セル、と、オランダのアムステルダムのコンセルトヘボウ交響楽団の音楽監督をされていたベルンハルト・ハイティンクです。惹かれる理由は何かというと、彼らの持つストイックさです。彼らのストイックから生まれる音楽の深さ、誠実さからは、音楽の向こうが垣間見える様な気がするのです。何度も不思議な体験をしました。

普通ストイックというと禁欲的なということで、内側から湧き出てくる欲望を抑えて生きている苦行僧のような重たいイメージですが、この二人の指揮から生まれる音楽はそんなことはなく、どちらかというとのびのびとしていて、いつまでも聞いていたくなるような軽みも感じます。

普段のストイックとは違って明るいのです。元々ストイックと言うのは禁欲といった、押さえつけるようなこととは関係ないものだと言いたいのです。むしろ誠実なという方がふさわしいと思います。例えば二人の指揮者についていうと、彼らはどちらも音楽の僕(しもべ)たらんとしているのだと思います。ですから精一杯音楽に語らせようと努めます。そしてそれに楽団員がついてゆくのです。指揮棒で楽団員をコントロールして思いのままの音楽にするというのではなく、音楽が鳴りたいように鳴らせるということに尽きるのです。そこからのびのびとしたおおらかな、しかし力強い音楽が生まれるのです。まさに誠実さの賜物です。

こうした音楽からは音楽のエッセンスが聞こえてきます。別の言葉で言うと音楽骨格のようなものです。実はここに先ほどいった「音楽の向こう」というものが潜んでいるのです。ジョージ・セルの指揮するモーツァルトのピアノ協奏曲から何度もモーツァルトが愛した数々の数式がイメージとして聞こえてくるのです。それを音楽鑑賞とは言わないのでしょうが、一度ならず何度も数式との出会いがありました。モーツァルトは子どもの頃、色々な計算を紙に書いたり、壁に書いたりしていたのだそうです。算数っこだったのです。ジョージ・セルはそんなことを音にしようと指揮棒を振っているのではなく、モーツァルトの音楽に近づこうとすると、そういうことになってしまうのです。特に圧巻は彼が無くなる数ヶ月前に録音したシューベルトの未完成交響曲です。楽団員も指揮者の死が近いことを知っていたと言うことで、お互いに最後の演奏を歌い上げようとしている熱を感じます。YouTubeで探すときはSchubert George Szell 1970で検索してみてください。

自分の才能を衒ったりすると音楽はすぐに死んでしまいます。死ぬとはつまらないありきたりのものになってしまうと言うことです。音楽は自己主張のようなものが嫌いで、ストイックに表現されたがっています。誠実とが貫いていれば、そこから華やかさも生まれていいのです。音楽というのは本来静かなものなのです。静寂が音楽の故郷です。音量のことを言っているのではなく「静けさ」のことです。どんなに音が鳴っていても優れた演奏からは「静けさ」が聞こえてくるのです。パフォーマンスを衒った派手な演奏からはこの静けさが聞こえてこないものです。

この静けさを引き出せるのがストイックの力です。ストイックを禁欲的とすると、芸術としての音楽は煮え切らないつまらないものになってしまうでしょう。ストイックだから楽しんではいけないという狭いものではないのです。ものの本質に迫れることが大事なのです。そのために努力するのです。それ以外のことは周囲が決めているだけのことです。

ストイックを装っているのは大抵パフォーマンスです。