わび・さび

2024年6月22日

河井寛次郎に「いのちの窓」と言う本があります。詩集ではなく、エッセイなどでもなく、格言集といえば言えないこともないのでしょうが、河井寛次郎のその時その時の言葉を集めたものです。

その中に「わびとさび」と題された言葉があります。

わびとさび

貧乏の美   片付けられた貧乏

河井寛次郎は柳法悦、バーナード・リーチなどともに民芸運動の中心人物でした。民芸品の中に潜んでいる美を探し求め、沖縄から北海道まで日本中を歩き回った様です。派手な贅沢とか豪華とかいう世界ではない、日常生活の中にこそ美があると信じ、慎ましやかな美を発掘したのでした。

その彼が感じた「わびとさび」は貧乏という概念と結びついていたようなのです。

今世界は豊かになりたくて仕方がない様です。豊かには色々な豊かがありますが、金銭的な豊かさが今は一番人気です。みんなできればベンチャー会社の経営者になってお金持ちになりたいのです。私にわからないのは、そうして稼いだお金を何に使うのだろうと言うことです。お金は「使ってなんぼ」の世界で、貯金通帳などに記載された額イコール金持ちということではないいと思います。お金は稼いだ分使うものなのです。

パトロンとなって芸術文化を支えたのは国王、貴族、成り上がり貴族でした。芸術はいつも支えられて命を繋いできたのです。余ったお金があったからできたと言ってもいいかも知れません。しかし一方て苦しい生活を強いられた民衆がいました。全土の九割の人たちです。

豊かさとはそう言う民衆に支えられていたのです。

 

貴族たちの所有する贅沢な美と民衆の生活感そのものの美とは何かが違います。

「わびとさび」は貴族の世界でもてはやされた流儀です。貧しい民衆は芸術を嗜む余裕などない生活を強いられていましたから、「わび・さび」は民衆から生まれたものではないのです。

貴族の民衆への憧れでもないはずです。

それなのに、何故河井寛次郎は「わびとさび」を貧乏という概念に結びつけたのでしょう。

この貧乏、謙り、謙遜にも通じているものなのでしょうか。

西洋には主張の美が蔓延していますから、最近日本文化へ意識が向きはじめているのは、高尚な貧しさへの憧れがあるのかもしれません。将来、西洋も主張から謙遜へと移り変わればいいのですが。

 

 

またまた声のこと、シューベルトの歌の秘密

2024年6月19日

声のことは随分長いことテーマにしてきましたが、語り尽くせない深いテーマですから、今日もまた声のことに触れます。

声の講座に、話し方教室のように感じいらっしゃる方もいるようで、そこのところははっきりと区別しておきたいと思います。話し方以前に声があり、その声がテーマなのです。

しかし声は意識されることがほとんどないと言っていいほど日常の意識から隠れているので、声をテーマにしても何のことだかわからないことが多いようです。

私のように長いこと声と付き合っていると、人となりが声に丸出しになっているので、人数が少ない時のワークショップなどでは参加者の声を聞くのはこの上ない楽しみです。

 

声に関心を持ち始めた人たちは、まず自分の声が気になります。自分の声に少しは気づいているものです。ところが自分の声というのは自分では半分しか聞いていないのです。というのは声は外に出てゆくと同時に体に響いてしまい、それが骨にまで響き、その響きを聞いてしまうからです。録音された声を聞いて自分の声だけがわからないというのはそれによるのです。他の人の声は録音でも外に響いている声を聞くので「あの人の声だ」と他人は判別できるのです。

自分の声に悩んでいる人というのは多いものです。声が通らないというのが一番多いかと思います。相手に伝わらないということです。

声というのは通らないものなのでしょうか。声が通らない原因は声を作ろうとしすぎていることです。分かっている部分もあるでしょうが、大抵は無意識で声を作っています。作り声は雑音が混ざり過ぎて聞きにくいです。大きな声が通るかというとそんなことはなく、作った大きな声はうるさいだけで通りません。私の声は音量的には大した声ではないのですが遠くまで通ることもあるのです。私の声は人の耳には遠くからでもよく聞こえるのですが、近くでもマイクには入らないという特徴があります。

 

私の声を聞かれた方達からどうしたらその声が得られるのかと聞かれます。私が一番苦手としている質問です。この声を得るためのHow toと言えるものがないからです。

とは言っても私がこの声を持つようになった経緯はあるような気がします。

その一つは歌うことでした。それもシューベルトの歌を歌ったことだと思っています。

シューベルトの歌は色々ある歌の中で特別な歌だと思っています。1

歌として世界中から愛されています。音楽的カンテから言うと自然で綺麗なメロディーということになっています。でも私がこの歌から感じているのはもっと深いものです。綺麗は綺麗でいいのですが、そんな次元で特別なのではなく、「言葉を喋るように歌える」というところです。シューベルト以外の歌は、歌詞にそれにふさわしいメロディーをつけ、綺麗な音楽的な歌に仕上げたものだと考えています。音楽的に優れていのでしょうが、言葉を歌うという仕事はそこからは見えてきません。シューベルトの歌は言葉が歌い始めます。音楽であるより言葉なのです。ですから気がついたら言葉が奇麗なメロディーをまとっていたというものです。

私はシューベルトの歌は音楽と見られていいのですが、それ以上に言葉の芸術なのではないかと見ています。

人間の声は言葉によって作られると言っていいものです。色々な言語から色々な声が生まれていると思っています。日本語が日本人の声を作っていると言ってもいいのです。ですから言葉が歌えるシューベルトの歌というのはとても貴重で、音楽的に優れているというだけでなく言語的に美しいのです。言葉をはっきり歌うというようなことをしなくても、言葉が自ずと響いているのです。あまり言われないことですが言葉が美しいのです。それなのにほとんどの人が朗々と張り上げて歌います。確かに歌いたくなるのでしょう。それくらいメロディーが綺麗というのも確かですが、それ以上に言葉が美しいのです。。

シューベルトの歌を歌うことによって、つまり言葉を歌うことを学んだことが、私の声にとっては大きいともいます。言葉のアーティキュレーションなどではなく、言葉の命をシューベルトの歌から学んだということです。

日本人の体質を持ち、ドイツ語で鍛えられた声ということなのかも知れません。

 

今は歌を音楽として評価する傾向が強いです。言葉を忘れたところも声が育たない原因があるのかもしれないと思っています。音楽にこたわりすぎているのです。音楽に拘ると固くなってしまいます。固くなるのは頭です。寛容で亡くなってしまいます。もっと言葉の懐の深さに目覚め、おおらかになる必要があるのだといいたい気持ちです。

日本語のいい歌が欲しいです。日本語が歌い出しているような歌をです。日本の歌は西洋の音楽が入ってきたことで育たなくなってしまったような気がしてならないのです。以前に柳兼子さんの歌を聞いて、その声の豊かさに感動したことがあります。彼女は西洋音楽に接する前に小唄とか端唄など日本語の歌を歌っていたと聞いて、さもありなんと思った程です。

指揮者に思うこと

2024年6月18日

指揮者によってオーケストラの作品はずいぶん変わります。特に著しいのはテンポですが、それ以外にも微妙な違いがあって、最近はとても興味深く感じています。良い良くないというのはひとまず置いて、指揮者によって何が変わるのでしょうか。そして指揮者という存在は何なのでしょうか。

若い頃は指揮者なんて無用の長物だと豪語していましたが、今は少し穏やかになって、指揮者を評価できるようになっています。指揮者とオーケストラの間に起こっていることに、色々な場面で気付かされ興味が出てきたからのようです。壮大なコミニュケーションの課題のような気がします。

音楽は演奏者が仲介するのでしたかがないのですが、オーケストラという集団を率いる指揮者となると、ソロで演奏するのとは違って別の緊張感と孤独感があるはずです。そこで何が起こっているのか、想像を絶するものを感じる一方で、案外私たちの日常でも遭遇することのようでもあります。

 

指揮者はオーケストラの楽団員をどこまでコントロールできるものなのだろうか、とよく考えます。ただこの問いには簡単な答えはないのでしょうが、もちろん独裁者のような強引な指揮者はオーケストラから嫌われているようです。かといって民主的にというのも成立しないもののような気がします。

私の好きな指揮は、指揮者がオーケストラから信頼されていて、指揮者は指揮者で音楽を愛し精通していて、指揮者の個人的な意見でオーケストラを纏めようとしない、音楽の僕として指揮する指揮者です。

その時のオーケストラの響きは広がりがあって聞いていてのびのびします。ところが細かいことを言い自分の考え、スタイルを楽団員に押し付けようとする指揮者のオーケストラからは窮屈な音楽しか聞こえてきません。私の思い込みかもしれませんが、この部分はわかっているつもりです。ただし強い指揮者でも楽団員から絶大の信頼を得ている時などは、それがかえってまとまった力を感じる演奏になったりするのですから、矛盾だらけです。

指揮者には響きを整えようとしているタイプの人と、音楽のエッセンスを引き出そうとする人との二つのパターンがあるように思います。個人的には響きを意識しすぎたり、響きを強調している指揮よりも、キッパリと音楽に向かっている演奏の方が好きで、そういう演奏に接すると指揮者とオーケストラと聞き手である私が一つの音楽を共有できたという感じ、幸せな音楽鑑賞ができます。響きに重きをおく指揮者の指揮は主観が強く、思っ苦しく押しつけられたような後味が残るので苦手です。

指揮者が演奏する音楽を知り尽くしているということは重要な前提で、そこから生まれる確信は楽団員からの信頼を獲得でき音楽を豊かにするために必要で、その力があることでオーケストラを引っ張るように率いるのではなく、楽団員達一人一人に自由に演奏させられるということのようです。これができる指揮者はわずかのように思います。とはいえ、本番にはいつも何かが潜んでいるもので、その時に降りてくる霊感のような直感にも指揮者が開かれていないとマンネリになってしまいダメなもののようで、懐の深い演奏はそのような上質の即興的なところから生まれるようです。それはまたとても勇気のいることだと想像します。