たらい回しのYouTube、レシピの弊害

2024年6月10日

YouTubeを見ていると誰かが言い始めたことが段々と広がってゆくようです。

コピーの原理です。

中国料理の凄腕の料理人さんにいつも美味しい料理を食べさせていただいていたのですが、その方が、料理は誰の真似をしてもいいのだと言っていたのですが、最近のYouTubeの料理番組?を見ていると色々なパクリをやつているのが見え見えで気分が悪くなります。正直にどこで習ったとか言えばいいのですが、あたかも自分で見つけたような口振りでいうのが後味が悪いところです。

実はシュタイナー教育というのも随分パクられているのです。あたかも自分で長年研究して見つけたように学者先生達は言うのですが、シュタイナーの中で長年やっていると、あちらこちらから時々そういうコピー教育学が現れます。学問の精神に反していると思いながら見ています。

今はまだ夏ですがクリスマスの頃になると、幼稚園や保育園の窓には、昔はシュタイナー幼稚園にしかなかったようなものが貼り付けられています。ですから、それだけ見ていると区別がつかないようなこともあります。

レシピ化するということで広まったのは世界の三代料理と言われるフランス料理です。これもその中華の料理人さんが教えてくれたのですが、いい意味で「みんなが作れるようになった」のだそうです。フランスばかりでなく、ヨーロッパの至る所で、アメリカ大陸でも、そしてやがて日本でもそのレシピで作ればフランス料理として食べられるようになったのです。こうして世界のフランス料理になったのだそうです。

レシピ化すると広がるのは早いようです。基本的には真似ですから。もちろんレシピ通りに作ったからと言って本物のフランス料理になるかというとそんな簡単なことではないのですが、表面的に見ればフランス料理として通用します。そうして世界中にフランス料理風が広がったという訳です。似たようなことはシュタイナー教育の周辺でも起きています。

シュタイナーはアントロポゾフィー、人智学をレシピのように理解しないでほしいと繰り返していました。これは同時にシュタイナー教育にも言えて、フランスに持ってゆく時にはフランスの文化に見合ったカリキュラムが必要だと言っていたそうです。ところがいざフランスに作った時には、ドイツでのカリキュラムをそのまま持っていってしまいました。その後はどこの国でもドイツのカリキュラムが使われ、広まってゆきました。ヨーロッパを超えてアメリカ、アジア、アフリカに行ってもドイツのカリキュラムの延長のシュタイナー学校です。

シュタイナーは苦笑いしていると思います。

フランス料理がレシピ化されて広がったようなものと見ていいのでしょうか。

 

先日文明はコピーされものだと言いましたが、まさに文明花盛りという感じです。

文化はそう簡単にはコピーできないものですが、そこにも文明に毒された考え方、気配は忍び込んでいるようです。レシピ化というのは文明の利器なのです。

いま感じるのは文明の発達はそろそろ飽和状態になるのではないかということです。人間は別のものによって満たされたいと思った時に、新たに文化への関心が目覚めるのではないかと思います。そうなった時に文明の方に文化から逆輸入できるようになると面白いものになるかもしれません。

シュタイナー教育も料理の世界も文化の産物であってほしいと願う限りです。

自動車も電化商品

2024年6月9日

このところずっと2月の講演の講演録を作るのに時間が取られていました。

録音が悪く聞き取れないという苦情が多く、文章化するというふうにしたのですが、原稿起こしと録音を聞いても原稿にならないくらい音質が悪く、しかも聞こえないところがある穴だらけの録音で、結局メモを手がかりに新しく書き下ろすという形になりました。

自分の下メモがあったのと、その日会場で聞いた方のしっかりしたメモを手がかりに文章にすることができました。

 

ということで久しぶりのブログです。

今日は自動車が電化してしまったということを書いてみようと思います。私にはプラモデルが道路を走っている感じです。車のことがわからなくても車が作れてしまう時代が来ました。

何でも電化してしまう時代です。そんな中でとうとう自動車まで、電化商品になってしまいました。便利さを追求したり、環境に配慮されたりと、大袈裟な宣伝がなされていましたが、あの手ののプロパガンダは信じるに足りないものです。素人がこねくり回しているだけで車ができちゃったんで、何だか車の格が下がった感じです。絵画の印刷されたもののような感じです。何枚も印刷できてしまうのです。

電化してゆくと、人間が怠惰になってゆくような気がしてならないのです。冷蔵庫、洗濯機、掃除機そして時計、まだあります、家は電化されて、暖房、クーラー、台所もみんな電気です。電化する前とそれ以前では随分生活感が違っていました。電気漬けになると、文明の先端にいるような感覚になるようです。

 

冷蔵庫が電化と言ってわかる人の方が少なくなってしまったようですが、昔は氷を入れて冷やしたものです。毎朝氷屋さんが来て一貫とか半貫とか買って(一貫は3.75kg)冷蔵庫に入れて冷やしたのです。朝来る氷屋さんがノコギリで大きな氷の塊を切り出す時に出てくる、木でいうところのノコギリの粉のような氷屑が美味しくてよく食べたものです。電気になってからは塊の氷とは、かき氷の時以外には縁がなくなってしまいました。食べてもとても美味しい氷でした。今でオンザロックにはよく使われているということです。

掃除機の電化は、我が家では随分後になってからでした。でも掃除機の後ろから出てくる暖かい風が嫌いで、逃げていました。本当に綺麗になっているの、舞い上がった埃はまた落ちてきているのかなどと考えていました。今では掃除機でないと綺麗にならないと思っている人がほとんどです。今は充電式ですから、昔の箒のように使える掃除機まで出回っています。

洗濯機が一番生活を変えたかもしれません。洗濯機以前は手で、洗濯板の上をゴシゴシと擦っていたのが、放り込めば綺麗になるのですから、この上なく便利で、主婦を一番助けた立役者です。その後乾燥機も出てますます便利になって行きました。

時計がクオーツで電池で動くようにしたのは日本のセイコーです。リューズ式、自動巻き以上に正確な時計ということで画期的な発明と言われました。起きっぱなしでも一年とか二年は電池がある限り勝手に動いていますから、ほったらかしておいていい時計ということになります。

暖房も冷房も電気がやってくれます。こたつも電気炬燵です。台所が釜戸から電気へと移行して、これでほとんどが電化されたことになるのでしょうか。お湯も電気で温められますし、お風呂も電気です。

そしてついに自動車が電化製品になったので、人間の生活は電気漬けになったと言えるかもしれません。電車はいち早く電化されていました。

どんどん電気を作らなければならなくなっています。化石燃料はダメですから、石炭、石油は燃やせないので、風力発電か、ソーラー電気です。絶対量が足りなくなることは目に見えています。すべての自動車が電化されてしまって困るのは電気の量です。石炭も石油も使えずに余ってしまうのですが、使い道は閉ざされています。原子力は最大の敵ですからご法度です。どこにも出口のない問題を抱え込んだことになっているようです。まるで空想小説のような、あり得ない世界が近々登場するのでしょうか。でも誰がこんな嘘みたいな話を本気で進めているのでしょうか。

 

 

 

雑学の大家

2024年5月28日

話の面白い人は決まって雑学が豊富です。よくもこれだけたくさんのことを知っているもんだと感心してしまいます。

以前にそうした雑学人に、どうしてそんなに沢山知っているのかと聞いたのですが、答えは、たくさんの人と付き合うからということでした。自分でがむしゃらに勉強したことって案外つまらないものなのだそうです。人から聞いたことっていうのは、直感の様なもので向こうからやってくるんです、ってことでした。

雑学は向こうからやってくるはけだし名言でした!

雑学というのは、どうでもいいと言ってしまえばどうでもいいことばかりです。その知識に方向性がある訳ではなく、ベクトルの定まらないものですが、その漠然としたところに魅力があるような気がします。

シュタイナーを読んでいると恐るべき霊的雑学に目眩がするのです。一見バラバラなことがあるときまとまってしまうのです。まさに名人級です。ですからシュタイナーの講演は音楽を聞くように読んでいます。

実は音楽にも雑学的なものがあると思っています。私達は有名な音楽家の作品を聞くことが多く、それに慣れているというのか、慣らされてしまっていて、そういうものだと聞き流してしまいますが、ラジオを聞いている時に、無名の作曲家の作品が流れることがあり、聞くでもなく聞いていると、つまらないのです。何がつまらないのかと言うと、聞かせどころばかりがつながっていて、無駄がなく息詰まってしまうのです。それによって曲全体というものが見えてこないのです。

偉大な音楽には、特に大曲などでは、誤解を覚悟でいうと、雑学みたいなどうでもいいフレーズが散りばめられていて、それだからこそ聞かせどころが輝いて聞こえるのです。全体に余裕があるのです。音楽が全体として聴けるのです。

雑学というのは余裕であり、しかもユーモアでもあります。ですから音楽も、お話も、講演もそれによって滔々とながれます。これは紛れもなく豊かさに通じるものです。

ためになることばかりでなく、雑学がたくさん詰まった大袋をしょって生きてゆきたいものです。