2024年5月28日
人間はいつまで機械づくりにこだわり続けるのだろう。機械のほうが優秀だとわかるときに終わりを迎えるのか、やっぱり人間のほうが優秀だと言って終わりにするのか、どっちでもいいのですが、どうやらもうしばらくは続きそうな感じです。
しかしなぜこんなに機械にこだわるのかやっぱり気になります。
他にもこんなにこだわっているものがあるのかと探してみると、人間は法律とかルールを作るのも大好きなようです。実際、法律やルールがない社会なんて考えられません。他人を支配するためのものに法律が使われることもあります。とても怖いものです。自分の権利を護るために法律で固めることもします。人権のための法律が権力と結びつくとパワハラ以外の何物でもなくなってしまいます。歴史の不幸はここに多くが見られるようです。
機械も法律も単なる道具である線を越える時が来てしまう様な気がします。すでに法律の精神が権力に牛耳られてしまっている様な気がします。未来はなんだか不吉な予感に満ちていますが、明るい未来を信じたいものです。
機械づくりが無事終わった暁には、人間はどんなことをしているのでしょうか。機械づくりから、人間味のある手工業のような、あるいは手作りの物づくりに戻れるのでしょうか。もちろん簡単に移行するものではないでしょう。しかもそこには新しい価値が見出せれるという条件がついてきます。
ということは、今一番しなければならないのは、新しい価値を見つけることです。出世、お金というものに突き動かされた社会が長く続いています。もうそろそろ違う価値が生れてもいい頃のような気がするのです。気をつけないとただヴォキャブラリーが変わっただけということにもなりかねません。ヴォキャブラリーが変わっただけで根底の価値観が全く変わっていないものが横行します。「今の若いものは」、という言い草はだめですが、若いからと言って決して新しくないということも心得ておく必要があります。目新しそうなところに惑わされてしまうのです。ここが一番難しいところです。そうしないとシュタイナーが言う、唯物的精神主義なんて落とし穴に落ちてしまいかねません。
価値観の変換のことをこれからも考えてゆきたいものです。
2024年5月26日
日本には世界で一番短い俳句という詩形が存在します。今では世界的に有名になっていますが、この短さはどこまで行っても驚異的です。普通にはこれで何かが表現できるのかと考えてしまう短さです。暗号とか記号とかならまだしも、立派な詩なのですから驚きです。普通に会話するような言葉遣いからでは到達しない異次元の世界です。まさにこの不可思議な短さに世界は注目しているのです。注目しているいるだけでなく、それを自分の言葉でもやり遂げようと悪戦苦闘しているのです。側で見ていて日本語という神秘語に近づくための努力は痛々しいほどです。
言葉というのは言葉の意味と、言葉のつながりからなる方程式なので、言語学的な説明からだけでは十分でないところがあります。この二つを兼ね合わせた日本語方程式に近い言葉は、私が知る限りない様です。
散文の世界に目を転じると、今度は世界で一番古い長編小説、源氏物語があります。一昔前までは物書き、小説家は源氏物語に憧れてものを書いていたのです。紫式部のかいた源氏物語は今でも日本文学の頂点にあると言っても過言ではないと思っています。書の世界でも紀元前に生きた王羲之の書が今でも頂点にあるように、源氏物語も千年経った今も頂点にあるということは、書にしろ文章にしろ時代が下がるに従って、進化するのではなく退化しているのでしょうか。
源氏物語は日本から世界に出て行くと不思議な環境に身を置くことになります。日本人の読者より日本が大好きという人たちの間での方が熱心に読まれているのです。そして彼らはそこから日本の本質を熱心に感じ取ろうとしているのです。文化の間に交わされる異常なまでの情熱には目を見張るばかりです。
今は漫画とアニメがその役を担っている様ですが、アニメに至ってはそのままのコピーや海賊版が世界中に出回っています。しかも自分の国のものだと言い張る国があり、どうしてそんなことが罷り通ってしまうのか不思議でなりません。文化への敬意の不足しか感じないのです。
文学は俳句にしても、小説にしてもコピーできないというところにその本質があるようです。
文明の力、コピーが通用しないのです。翻訳機が進化して今では至る所で大活躍しています。ありがたい進化です。世界の会議場などの重要なところでも同時通訳ができるほどの性能が知られています。しかしそれは単語と文章を記憶させて途方もない記憶の量から導き出されてくる物です。したがって時には人間の通訳者より正確かもしれませんが、言葉は機能しているだけで、温かみがないのです。
コンピューターが小説を書く時代です。しかしどのような精神性がそこで仕事をしているのかとなると、不明な点が多くあります。将棋やチェスの世界ではコンピューターが人間を凌駕してと言われる時代ですが、将棋やチェスがそれによってワクワクするものになったかというとそんなことはなく、勝負に強いというところだけが突出しているではないのかと勘繰ってしまいます。
AIが描く絵も、詩も小説も同じです。優れているという基準を満たす作品を統計的に整理して集大成したものです。例えば機械で最高の寿司職人の握りを統計的に整理して覚えさせたもので握られた世界一の寿司が本当に寿司を食べるという状況を満たしてくれる物なのかどうかは疑問です。一般的には最高の寿司ということになるなのでしょうが、また食べたいと思える物なのかどうかは、まだ食べたことがないので何とも言えません。AIはグルメ料理とは戦えるかもしれませんが、家庭料理の世界では歯が立たないのではないかと思っています。家庭料理は間違いだらけの世界だからです。
文明とは最高の精度で集積され整理されたコピーの世界のことかもしれません。文明の根底にあるのはコピーの精神なのです。モノマネです。今日の世界の大都会を見るとよく似たものになっています。高層ビルを乱立させることが文明のステータスだからです。そしてデザインは意匠を凝らし違っても、本質的な感触は似たり寄ったりのものばかりで見ていて飽きてしまいます。畢竟コピーだからです。コピーはこれからも、どこまでも進化し続けます。どんどん正確にコピーできる様になってしまうのです。そうなると世界中が似たものになってしまうかもしれません。みんなおんなじになってしまうのです。これが文明の宿命です。
文化の使命は反対だと思っています。文化とはどこまで行ってもコピーできないものだからです。
今日本に外国からたくさんの人が来る様になって、口々に日本の文化を知りたいと言っています。ところが、コピーできるものだけ持って帰っていただいても文化ではない様な気がするのです。文化を支えているものは、コピーできないものだからです。同じではないという気骨が精神を支えているのかもしれません。精神は案外頑固な物なのです。この超えがたい距離が何とも文化なのです。
ただ今のAIの進化は文明から文化に近づいているのかもしれないと感じることがあります。もうすぐ、勝手に考える様なAIが生まれる可能性もなきにしもあらずなのかもしれません。そうなるとますます文化が磨かれるチャンスが増えるということです。違っていること、同じでないことが輝き始めるのかもしれません。
2024年5月24日
ドイツでのことです。買い物などでレジの人が突然日本人ですかと話しかけてくる事があります。ここ数年よく見かけるようになったことなのですが、最近は特に増えているような気がします。その人たちはいろいろなことを通して日本のことに興味を持ち調べているようで、私が中国人でも韓国人でもなく日本人だということは、秘密裏に鍛えた嗅覚でわかるのだそうです。
そして必ず言うのが「絶対に日本に行ってみたい」ということです。何がいいのかと聞くと「全て」という答えが返ってきます。食べ物、神秘的なほどに正確に機能する鉄道、風景、人の優しさと礼儀と数え上げられないほどの事例が飛び出してきます。
聞いていて悪い気はしないのですが、なんとなくミーハー的な気がしないでもないので、案外素気なく「そうですか」と言ってしまいます。
一方で、YouTubeを見ていて、よく日本が自我自賛をしているような動画に出会うことがあって、その度に背筋をゾッとさせています。自画自賛は精神的に不健全です。誰が作っているのかは知る由もないのですが、私ば文化を支えているものは奥深いものだと思うので、一つの現象を取り出して自画自賛するのはどうもと思ってしまうのです。
こんなことを考えているのです。
一度自分の育った文化を徹底的に否定してみてください。そうして初めて見えてくるものがあります。再評価といったプロセスがどうしてもあってほしいのです。ただベタ褒めしているだけでは、自分のことも他人のこともです。程度が低すぎると思ってしまうのす。鬼の首を取ったような調子で語る人たちには傾ける耳を持たないのです。思想集団の中によく見られる、自己批判のない傲慢な輩と同じに見えてしまうのです。
ドイツでも日独友好の会などがよく催されているのですが、私はほとんど顔を出しません。日本のことを気に入ってくれるドイツ人がいることは「いいことだ」とは思うのですが、どことなく気恥ずかしくもあるからです。
もちろん頭で考えるよりもまずは好きになることが、あることを理解する一番の近道だと思うのですが、もう少し距離を置いてみていただきたいと思ってしまうのです。
私の中には一度自分の文化、日本の文化を否定した過程があるので、そこをやたらと褒められても、ただくすぐったいだけなのです。そんな時はいつも心の中で、あなたはご自分の文化を否定したことがありますかと言っているのです。ドイツ人には「バッハなんか糞食らえだ。あんなインチキな音楽なんか聞けたもんじゃない」と心から憎んだことがありますか、ということを言いたくなります。そうしないと自分の文化以外の文化の本当にいいところが見えてこないからです。ドイツ的にみて日本がいいところというのでは驕りにすぎなくて、十分ではないのです。
異なった文化に近づくために必要なことがいくつかあると考えています。まずは好きだということです。これは大前提のような気がします。恋愛感情でも好きが全てに先行します。損得感情で恋愛は長続きしないものです。そしてその文化と関わりを保つためには、リスペクトが必要です。その文化に心からの敬意を持って向かい合えるということです。尊敬の念は他の全ての関係と全く別の次元のものです。特に利害関係というのはとても表面的なものですから、それだけでは表面的で長続きしないものなのです。そして自分の文化に一度否定的な距離を持ったことがあるかどうかです。他の文化の中で自分が蘇ったかどうかです。