アンサンブルの味

2024年5月6日

先日お亡くなりになった小澤征爾さんが中国の上海に招待されて、上海のオーケストラを指揮された時のことを、国文学者のお兄さんとの対談の中で話していたのですが、オーケストラの指揮台に立ってびっくりしたのは、全然音がまとまらないということだったそうです。あちこちからバラバラに音が聞こえてくるのだそうです。

中国は当時も一人っ子政策が敷かれておりました。みんなが一人っ子という社会状況を考えただけでもゾッとします。しかも音楽教育というのは大概、中国に限らずスパルタで英才教育です。一人一人を見れば技術的に訓練されているのに、いざオーケストラとして一つの作品を演奏する段になると、一人一人がバラバラでオーケストラとしてのまとまりが感じられなかったのだそうです。それはなんと言ったらいいのか言葉に詰まってしまうほど奇妙な音楽体験だったということです。

このことは中国人のオーケストラに限ったことではないと、私の音楽経験は言います。例えばピアノ三重奏などを聞いていると、よく経験するのは、ピアノとヴァイオリンとチェロの三人でグループを組んで活動している人たちの演奏と、有名なピアニストとヴァイオリニストとチェリストに声がけして著名な音楽祭などのために臨時のグループを結成したものとの演奏の違いです。

三人のソリストによって作られた即席グループの演奏は、一人一人が実力者の集まりですから、上手ですし、それなりに聞き応えがあるのですが、バラバラな印象を持つこともあります。時々あるというよりも大抵アンバランスなのです。もちろんアンサンブルに慣れた人かそうでないかの違いは大きいですが。

ピアニストの多くは普段ソリストとして一人で演奏することに慣れています。したがって他の演奏家と合わせるタイミングが見つけられないようで、歌やヴァイオリンなどの伴奏の時には相手の音楽が聞こえてこないのではないかと思うようなものがあります。共同作業が成立しないのです。

私がかつて歌を歌っていた時のことです。色々な伴奏者とご一緒しましたが、伴奏という仕事が特別なものだとつくづく感じたものです。幸い私の場合は経験豊かな方達が伴奏をしてくださいましたから、困ったことはなかったのですが、同じ曲でもタイミングや音の感じ方などに違いがあるのが面白く、それを楽しんでいました。

リズム感というのは、なかなか変えられられないもののようで、人それぞれに随分違います。他の人と合わせる時にはテンポと同様に意外と曲者です。これは音楽に限ったことではなく、同じプロジェクトで何人かと組んで仕事をしてみるとよくわかります。

特にテンポは悩みの種です。必ず他の人とテンポが合わせられない人というのがいるんです。自分のテンポを主張したら絶対にうまくゆきません。相手に合わせるという姿勢が要求されます。音楽のアンサンブルの時には、ただ合わせるだけでもダメで相手と一つになろうとする働きかけがないとまとまらないのです。

人生は音楽によく似ています。音楽の基本は聞くことだとつくづく思う時です。人生もです。いくら言葉で説明しても合わないものは合わないのです。頭で、理屈でわかるなんて大したことではないのです。生理的に合わないのです。

きっとこんなことがアンサンブルを組む時にはいつも起きていて、いつも同じ人とグループを組んで演奏活動をしている場合は、息も合ってきて、阿吽の呼吸の領域で演奏できるのでしょうが、臨時のグループにそれは要求できないことです。きっとそこはそれぞれの知名度でカバーしているようです。

 

小澤征爾さんが指揮台に立って指揮棒を振った時の上海のオーケストラの音を聞いてみたかったです。音楽であって音楽でないと言ったものだったのではないかと想像します。しかしこれは一人っ子政策によるものなのか、歴史的にみて感じる中国独特のものなのかはわかりません。いつか放送された上海オーケストラの演奏を聴きましたが、味付けができていない料理のような印象を持ちました。音楽というものは相手を聞くことがないと、味が生まれないということのようです。

日本では利き酒という仕事がありますが、これも「きく」ことなので、音楽で聴くことがうまくできていないと、そこからいい味か生まれないというのは、この辺と関係しているのかもしれません。

いいアンサンブルの演奏は確かに美味しいです。

 

ピアノは俗物の楽器

2024年5月4日

シュタイナーはピアノを俗物の楽器と言っているんです。結構激しい言い方ですからピアノが嫌いだったのかと思わせるようないいぷっりですが、そういうこととも違う様なのです。好きだったのかというと、自信はありませんが、特別好きというほどでもなかったのでしょうが、まあ好きだった様に思います。しかし激しい言い方です。ピアノを弾かれる方をがっかりさせるに十分な迫力です。

ピアノといっていますが、楽器としてのピアノではなく、私は鍵盤楽器全般のことだと解釈しています。したがってパイプオルガンもチェンバロもハンマーフリューゲルも俗物扱いです。バイブオルガンなどは教会に欠かせない楽器なのにシュタイナーからは容赦なく俗物です。

この楽器は霊界に原型がないのです。ということは一から十まで地上的な要求を満たすためにある楽器と解釈出来ます。ピアノは普通に言われるところに従えば楽器の王様ですから、音楽をする楽器の中で一番優れていると考えられているのでしょう。確かに交響曲などもピアノに編曲されて演奏できちゃう訳ですから、有能な楽器であることは間違いないのでしょうが、シュタイナーはそこが気に入らなかったのではないかと推測します。何でもできる、万能の楽器なんかは必要ないと思っていたのでしょう。

 

楽器というのはどれもそれぞれに難しいものです。ピアノという楽器はその中でも難易度の高い楽器です。私がお世話になったクニーリム博士は、「ピアノを上手に弾く人は沢山いるけど、ピアノで音楽が作れる人は指で数えられるほどしかいない」というのが口癖でした。もちろんクニーリム博士もピアノが大好きでした。

ピアノに難癖をつける人に限ってピアノが大好きというところが面白いです。

私もピアノ弾き込める人は数えるほどだと思っています。ヴァイオリン属の楽器の難しさとは違う難しさです。ピアノのテクニックに溺れて弾かされているだけでは、ピアノを弾いているということにはならないのです。ピアノの音を音楽の音にまで持って行ける人が少ないのです。ピアノの音のように死んだ音を生き物に復活させるところが選ばれた人にしかできないのピアノなのです。そういう人に弾かれたピアノはイキイキしていて音が全然違います。音が深いですし、透明です。

音楽が一番苦手としているのは、上手に弾くというところです。特にピアノの場合は顕著です。これほど嫌味なものはないと思っています。個性的であろうとすればするほど音楽から遠ざがってしまいます。ピアノが悪臭を放ちます。

ピアノの持つ俗性は演奏者の人格で掬い上げなければならないのです。

人間の角度は360度が理想

2024年4月30日

人間に角度があるようです。また人間を数字で表すのかと言われてしまいそうですが、知能指数のように試験する人がいてテストをして測るのでもなく、血圧のように計器を使って測るものではないので安心してください。全くの自己申告でいいのです。ということは、他人に知られる必要など全くなく、自分で感じていればいい楽な数字です。

人間の視角のことをいう時に言われるのは、一般的には左右に120度くらいだそうです。上下も大体同じくらいです。運転の時にどのくらい見えているのかのテストがありますが、これとここで取り上げる人間の角度とは少し違います。ちなみに聴覚の場合だと200度ほどに広がるそうです。

視野が広いとか狭いとか言いますが、この場合は視覚的な角度のことではなく、視野ですから、肉体的にではなく意識の広がりということです。馬が半分目隠しをされているのを見たことがあると思うのですが、気が散らないためにされています。目の前のことしか皆ようにされてるのですが、このくらいしか世の中が見えていない人もいて、こういう人を視野の狭い人というのです。その人の人間の角度はせいぜい30度くらいでしょうか。自分が見たいものしか見えていないのですから、もしかするともっと狭いかもしれません。

この人は何も見えていないのだと驚かされるような人に出会うことがあります。この角度は頭の良し悪しに並行しているとは限らないのです。頭のいい人ほど人間の角度は狭いのではないかと私は個人的な経験から思っています。研究者などは馬半目隠しのような状態にいる方が、周囲に惑わされないで研究に集中できるものです。あるいは人間の角度が生まれつき狭い人が研究者に向いているということかもしれません。大学の先生から始まって、学校の先生と呼ばれる人たちも押し並べて角度が狭いようです。研究者ほど極端ではないのでしょうが、「先生と言われるほどのバカじゃなし」ということを昔は言ったものです。先生とか教育という仕事を聖職と崇める一方で、先ほどのような言い方もされていたのです。まだあります。「でもしか先生」です「先生にでもなるか」、と先生になる人もいれば、「先生にしかなれない」と先生になる人もいたのです。先生も人間の角度が狭くてもできる仕事のようです。教育がこんな状況でいいのかと心配になります。

専門職になればなるほど、角度は狭くていいようです。専門の専という時は「もっぱら」ということです。専念するということですから、そのことだけに関わっていればいいということです。文明社会は専門家が排出される社会ということです。人間を機能という視点で捉えると角度が狭くても一向に敵わない、いやむしろ角度かせまい方が向いているのかもしれません。人間が機械化してゆくということでもあるようです。

では角度が広くないとできない仕事はなんなのでしょうか。

農業に関わっている人をかつては「百姓」という言い方をしました。今でも「お百姓さん」と愛情を込めていうこともありますが、その意味するところは、「百種類もやらなければならないことがある」ということです。百という数字は形だけのもので実際に数えて得た数字ではありません。いろいろなことに気配りができていないとできないし仕事ということです。植物のこと、土のことなど知らなければならないし、工具や機械のことも知らなければならないし、天気のことにも通じていないと困ることがあるものです。つまり私たちが生きる上で関わってくるほとんどのことに通じていないとダメだということですから、「お百姓さん」なので、専門家の真反対にいる人たちです。

親になることで人間の角度は嫌が上でも角度が広げられるようです。独身の時には自分のことにだけ関わっていればよかったのですが、子どもができると24時間体制が強いられます。そうなると自ずと人間の角度が広げられていまいます。ほとんど360度に向かって全開しているようです。そうでないと親が務まらないのです。

 

人間性、人間の柔軟度はこの角度が示す数値に並行しているようです。地に足がついているという言い方も人間の角度の別の言い方かもしれません。