2024年5月14日
先月の21日にピアニストのフジコ・ヘミングさんが膵臓癌でお亡くなりになりました。
いつも遠くから羨望の眼差しで見つめておりました。
心からご冥福をお祈りいたします。
フジコ・ヘミングさんは日本のピアニストとしては珍しく賛否両論を超越した存在として、音楽界に君臨されていました。
奇跡のカンパネラ、という代名詞をあてがわれていましたが、彼女自身は伸び伸びと誰もいない深みの中を漂っていたのではないのでしょうか。とはいえ彼女自身もカンパネラにうまく身を隠していたところもあるようでした。自分に納得のゆかない時にはピアノでカンパネラを弾いていたというより叩いていたようです。
謎という言葉は危険です。この言葉で括って仕舞えば沢山のことがそこに言い含められてしまいます。ですから私的には極力使いたくない言葉ですが、フジコ・ヘミングさんにあてがえる言葉が見つからない時には、思わず救いの手を「謎」という言葉に伸ばしてしまいそうになる気持ちもわからないではないです。
私にとっての彼女はあまり謎めいていなくて、むしろそのままを生き通したということから、世間の目からはかえって見えにくくなってしまったのかもしれないと思っています。しかもシャイな人だッたようで、人前には自分を出さないということなのでしょうが、音楽を聞けばシャイなどは吹き飛んで、どういう人かはすぐに分かります。あんなにありのままの人も珍しいほどありのままです。ただとても不器用なので隠しようがないのでしょう。
演奏をする人には、便利な音楽言語というものがあるので、演奏家たちはそれに身を隠して演奏しているのがほとんどです。コンクールなんてそんなものです。その中に隠れて仕舞えば、上手とか下手ということで測ってもらえるのです。しかし本当の音楽、ありのままの姿はそんなところにはなくて、生き様をそのまま出したらいいだけなのですが、音楽言語に身を固めてしまった人たちにはかえってそれが難しいようなのです。
無垢な魂で、暗視できる居場所を見出せず一生を生き抜けたのでしょう。
タバコに火をつける時の安らいだフジコ・ヘミングの顔が好きです。美味しそうにタバコを吸える人がいなくなってしまいましたから、貴重な映像です。養老孟司さんのタバコとは明らかに違いますが、寂しさの向こうが垣間見えるところは共通しているかもしれません。私には、色々な懐かしい思い出が彼女の紫煙の中に見えるのです。彼女を支えている大切な思い出がです。
タバコのことで思い出すのは中国で育ったロシアのピアニスト、ヴェデルニコフです。十代の彼が両親と共にロシアでピアノの研鑽を積むために引き上げた時、ただの商人に過ぎない父親だったのですが、当局からスパイ容疑でその場で銃殺され、母親はシベリアの強制労働に送られます。その時から天涯孤独なひとりぽっちになった彼が、両親との思い出を味わえたのは1日七本だけ吸っていたタバコの紫煙の中ででした。
孤独な人によく似合うのはタバコの紫煙です。
ピアノを弾いているときに体を揺らさない彼女の姿が好きです。体をくねらせて、いかにも弾いていますといった陶酔のポーズで弾く人の音楽は聴いていて疲れますが、彼女のどっしりした後ろ姿から聞こえてくる響きにはいつまでも耳を傾けてしまいます。
彼女のように音をつまびいていきたいものです。
合掌
2024年5月13日
私の誕生日を祝ってくれたかのように世界各地で見られたオーロラは、私が住むシュトゥットガルトでも短い時間観察できたのだそうです。真夜中のことで見ることができませんでした。返すがえす残念です。写真で見るととても鮮やかな赤に満天が染められています。
強烈な太陽風の煽りを受けてことだったそうです。十一年周期と言われている太陽の活動のサイクルからすると来年がピークにあたるそうなので、まだオーロラに出会える機会は向こうい一年の間度々あるのかもしれません。
昨年日本からドイツに北回りで帰る時、真夜中に北極の上を通過した時に機内の窓からオーロラをみることができました。地上から見上げるように見るのとは違い、空の上からのオーロラはまるで巨大なカーテンが空に浮かんでいるような雄大な姿でした。色は私が見た時は白に近い色でしたが、ほとんどが色を帯びているということなので、飛行機のガラス越しだったために色が失われていたのかもしれません。いずれにしても初めて見るオーロラには感無量でした。
知り合いにはオーロラを見るために何度も北欧に出かけて行く人がたくさんいますが、必ずしも見て帰ってきているわけではないので、飛行機から見ることができたのはラッキーの一言です。
同じ空を彩る虹の発生と夜空に広がるオーロラとは全く違うことが起こっています。虹は太陽の光と空気中の水蒸気の関係で生まれるもので、虹が発生している場所を指定することはできないのです。たとえ測定できたとしても、そこを観測してもなんら異常らしきものは観測できないのですが、オーロラは太陽の活動から発生するフレアにる太陽風が地球を取り囲む大気圏にぶつかることで生まれる現象です。この太陽風というのは私たちの生活に色々なアクシンデントを及ぼすもので、GPS、つまりナビに異常が生まれたりします。海を航海する船の位置決定に異常が生じるのは大変危険なことなで、毎回注意が促されます。時には地上の発電所にまるで落雷のような形で電磁波が流れ込むことがあって、アメリカのカリフォルニアで何年か前に発電所が大火事になったという報告がありました。
地球の気象にも大きな影響力のあるもので、気温の変化に影響が大きく、温暖化の大きな原因に数えられているものです。
オーロラを目撃できるのは嬉しいことです。今回のオーロラはしばしば観測されている北海道ばかりではなく、兵庫県でも見られたということです。しかも世界各地で同じように多く観測されています。
全国各地、三十にも及ぶほどの広い地域でみることができたということなのですが、向こう二日ぐらいはまだ期待できる可能性があるということですから、ぜひもう一度太陽には頑張って太陽風を地球に送っていただき、オーロラを再現してもらいたいものです。
私は一度だけの体験ですが、あの巨大なカーテンは忘れ難いもので、とんでもないものに出会ったという感動は今でも鮮明に思い出すことができるものです。もしかすると何度も見るというのがいいのではなく、かえって一回きりというのがいいのかもしれません。今日のような、なんでも記録できると考えられる時代には、この一回きりという体験は案外大切なものなのかもしれません。
2024年5月7日
気に入った一冊の本を何度も読みます。音楽でも一つの作品にしつこいほど付き合います。何度も読む、何度も聞くということなのですが、小さい頃からそうだったのかというとそんなこともないようで、多分二十歳の頃から始まった癖のようなものだろうと思います。
もしこれを心理学に詳しい人が読んでいたら、専門的な病名が浮かんでくる様なものかもしれません。
最初のきっかけとなったのはモーツァルトの伝記です。モーツァルトの音楽が好きでしたから彼の人となりをもっと知りたいと手当たり次第モーツァルトについて書かれているものを読みました。作品解説だけでなく伝記にも目を通しました。同じ人物の伝記を何種類も読むという初めての体験でした。
興味深かったのは作者によってモーツァルトのイメージが違うことでした。はじめは少し面食らいましたが、そのことに気付いてからは、伝記というのは半分は史実や生い立ちから取ってこられている訳ですが、残りの半分は、もしかするとそれ以上が伝記作者の創作だと言うことに気づいたのです。一見客観的に見えても思い込みのようなものではないかと思ったりもしました。
最初は各人によって違うことが気になったものですが、そのうち違うことが気にならなくなって来るのです。そして字面の向こうにぼんやりとモーツァルトのイメージが浮かんでくるのです。もちろん主観的なものです。私は霊能力などというものは持ち合わせていませんから、それらしきものは一切見えないのですが、心象として、イメージとして感じるものがあったと言うことです。残されている肖像画に似ていることもありました。
音楽も基本的には同じで作品の向こうに別の手ごたえを感じるようになります。親しい友達の様な感触で大切にしたいものになるのです。そこまでくると、この作品を知っているとか、この作品が好きだというレベルのものではなくなっていて、毎日使っている大好きなお茶碗の様なごくごく日常的なものになっているのです。