終わりと始まり

2024年3月9日

今回の日本旅行に際しては色々な思いが錯綜していました。我が家の事情などを含め「最後の日本での講演旅行」になることをまずは考えていました。それとは別に、今までコロナの間のロスを含め三十年もの間各地の皆さんと一緒にお仕事をさせていただいたことへの感謝の気持ちを伝えたいとことも含めてでした。

そのことは予めお伝えしておいたことなのですが、各地で最終回と思って講演や声のワークショプをすると、皆さん口々に「次はいつですか、来年またお願いします、また来ていただきたいです」などと、私の告知しておいたことなど全く知らなかったようにおっしゃるのです。

正直それには驚きました。しかし同時に皆さんが私との仕事をそこまで評価していてくださっていたのかと思うと嬉しい気持ちの方が優っていたのです。

 

現実には日本とドイツの間の飛行機旅行が昔とは違って大きな負担になっています。飛行時間がほぼ二時間長くなりますから、最後の二時間の機内での疲れは厳しく、さらにその後の時差を取り戻すまで長い時間がかかり今までとは全く違います。疲れが取れないのです。旅行自体が大変な上に、今まで拠点としていた実家がなくなるとなると、拠点がなくなりますから、日本国内を移動するときなど、荷物の整理や、洗濯などを考慮すると、今まで以上の仕事量が加算されてしまいます。若くなって行くのならまだしも、一年一年歳を重ねますから、健康面での不安もあります。

旅行以前に下した「今回で最後にする」という決断はそれ自体半ば必然的な物だったのですが、実際に各地を動いて得た感触からすると、現実はかなり違った物でした。三十年続けた今までの講演旅行という形に一線を引いて、とりあえずは終止符を打ったに過ぎないものだという手応えの方が強いのです。

 

終わった後に始まりがあるというの本当なんだと感じています!

 

今後まだどの様なものになるのかは未知数ですが、私自身、見た目ばかりではなく、中身も日本人である訳ですから、日本でたくさんの方とお話しできることはこの上ないことで、そこから沢山力を得ることができます。飛行機による旅行と言う過酷な手段からの疲れと、日本の皆さんから貰える力とが今は私の中で格闘しています。

ユーモアと直感

2024年3月6日

ユーモアは私たちの周りに満ち満ちている空気の様なものではないかと思っています。それなのに、あまりにも知らずに生きています。空気のように吸い込めばいいだけなのに、そこがうまくゆかないと言うのはどうしてなのか考えてしまいます。もちろん口から吸い込むことはできないですが、皮膚呼吸のように皮膚から吸い込むことはできるはずです。

普段は気づかないで吸っているので、体に入ってきたことに気づかずにいるのでしょうがもったいない話です。ユーモアをたくさん吸い込むと体がほぐれ暖かくなり、軽くなります。

 

現代人は体が力んでいて、固まっていますから、ユーモアは体に入ってきてはくれません。せっかくのユーモアとの関係を切ってしまっていると言う訳で、かえすがえすももったいない話です。

体が固まってしまう原因の一つは頭を使いすぎると言うことでしょう。しかも無駄なことで使いすぎている様です。そうなるとユーモアは切れてしまうのです。頭というのは実生活でも大切な働きをしているのですが、間違って使いすぎると体を硬くしてしまうからです。

私が大病をした時には、再生不良性貧血と診断されましたが、それが顕著だった様です。倒れる前まではしきりに頭を酷使していて、まあ理屈の世界に溺れていたのです。クリアーになったものもあるのでしょうが、体は固まってしまい、その結果冷え切っていた様です。そして体の中で血が作られなくなっていたのです。造血と言うのは実は体の中での一番繊細な新陳代謝だと医者に言われたことを思い出します。

今回「ヤドリキと欠伸」と言うタイトルで本にした中に、体の硬直とそれをほぐすことから生まれる欠伸のことを書きましたが、その時は欠伸など出ていなかった様です。

入退院を繰り返して、しばらく経った時のことです。少しは体が楽になった頃です。森を散歩したのです。とても爽やかな5月のことでした。風が体の中を通り過ぎる感覚を持ったのです。風は気持ちよく体を抜けて行きました。その時、今まで体がこんなにも固まっていたのかと自覚したのです。体の中にギュッと詰まっていたものが風の力といっしょに体から出ていってしまった様な感じでした。もしかしたら風の力で溶かされてしまったのかもしれません。その後の清々しかったことと言ったら、生まれて初めて体験するものでした。その後の透明感は格別でした。

この体験があって、私にはユーモアというものも風のように体を通り抜けているのではないか、そして通り抜ける時に体の中で固まったものが溶かされるのではないかと思うようになったのです。

 

ユーモアは直感に似ているものと今は考えています。直感はキリキリと頭を酷使している時には降りてきません。体が程よくほぐれないと降りてこないのです。極論すると頭で考えることをやめると直感は降りてくるのです。直感で得たものは、思考からすると根拠のないものがほとんどです。思考という過去の経験の集大成の様なものからでは説明できないからです。直感は未来を志向しているのです。

ユーモアと直感には共通しているところがあり今すぐ何かの役に立つものではないのですが、時間の流れをほぐしてくれるものと言っていいかもしれません。

グルメ的センスだけでなく

2024年3月5日

私は料理が好きでよく料理しますが、その延長にレストランを開いてみようなどという気持ちはありません。私の作るものには商品的な価値がないことはわかりきっているし、そこまで料理に打ち込める力がないと言うことを感じているからだと思います。料理に見栄も張ったりもないと言うことでしょうか。せいぜい家族で楽しめる様なものが限界で、それを超えて、見ず知らずの人におすすめできる様な料理ではないと言うことです。

世の中の料理を見ているとそこにはやっと商品価値に達した料理もあれば、商品価値を遥かに超えて、希少価値にまで上り詰めたものまで多種多様です。それを評価する組織もあって、世の中はそうしたグルメの世界を一喜一憂しています。

Washoku、日本料理が世界遺産に登録されたときに、日本料理とは言っても何が日本料理というのかがよくわからないのが実感としてありました。伝統的な料理のほかに、料理屋さんにゆくとずいぶん創作料理と呼んでいいものが出てきたり、料理人さん独自のアイデアから生まれたものに目を見張る訳です。奇抜で意表をつかれたものなどは、美味しいと言うより綺麗で珍しく、正直どう食べていいのかがわからないものまであります。そう言った物全部を含めて、washoku、日本料理なのでしょうが、いまだ漫然としていて、はっきりしません。

しかしこうした姿が、料理がある意味では芸術であるという証なのたとも言えます。小説にしろ、現代詩にしろ、伝統的なものにこだわっているわけではなく、創作の連続です。それが楽しみでもあるので、料理もその様に見ていいのだと思います。

その様に変化する中で、日本的な味のエッセンスは普遍なのかもしれないと考えることもあります。日本のフレンチは日本的フランス料理です。フランス人もびっくりするくらい繊細なものもあります。一方、フランス料理の伝統の中で作られるフランス料理は、現地で食べてみると、あるときは野生味あふれるものがあったりして、かえって日本の精細すぎる味付けからは作り出せない大ミックなものもありますから、楽しみ方が色々あって料理の世界というもは楽しい世界です。

私はどちらかというと野蛮性の強いドイツの味覚の中で生活していますから、日本の繊細さに目を白黒させたりしていて、繊細さが時には神経質な感じで伝わってくることもあります。繊細さと神経質さは本当は別のものだと思っています。

今回も色々なものを日本滞在の中で食べました。どれも美味しいし懐かしいしと楽しい味覚の世界を旅したのですが、大胆さと、野生味はもっとあっていい様な気がしています。美味しいと言うところでまとめないでいいのにと思ってしまうのです。

文学のことには少し触れましたが、音楽も同じで、間違うことなくきっちりと上手にまとめられた演奏は確かにいい演奏なのでしょうが、どこかで力を抜いている演奏の方が、聞いていて疲れないと言うのも事実です。私などは間違ってもいいのだと思って演奏しています。

きちっとしてなければいけない、ここがきっと日本人らしさでもあるのでしょうが・・。