私は私たち

2024年3月16日

イギリスの王様、女王様は、自分のことをIではなくWeと言います。英国国民を代表しているという証なのです。

日本でも天皇陛下は私とはいわずに、正しくは朕と言います。自分一人を指しているのではないからです。

 

私たちはもちろん私という言い方で自分を表現しているのですが、実態を知ると、自分は一人ではないような気がしてきます。いい人であったり、意地悪であったり、怒りっぽかったり、優しかったりと色々な自分が同居して居ると言ったほうがいいわけですからWeのほうが正しいのではないかという気がしてきます。いろいろな自分を総まとめにするのです。

今はまだ慣れない言い方ですが、自分を一つにまとめるほうが不自然に感じられる日がそのうち来るかもしれません。私と言う言い方は今でも抽象的だと感じることがありますから少しずつ準備をしようと思っています。私らしくと言う言い方も実は危ないもので、自分という幻想に囚われているところがあるのではないかと思っています。

 

ただ他人とコミュニケーションする時には自分を一つにまとめなければならないので、そこでは抽象的な自分を活用するのでしょうが、そうした対話がそもそも抽象的なものと言っていいのかもしれません。

 

私達の人間関係と言うのはそんな脆弱なもの上に成り立っているのでしょうか?

人間は人間らしく生きているだけなのかもしれません。

自動詞的人生観

2024年3月15日

人生への心構えというのは、しっかりと目的を持って生きると言うのが普通です。仕事につくのに必要なたくさんの資格を取って、ということです。目的もなくぶらぶら生きてはいけないということなのでしょうが、ここではちょっと異議申し立てをしてみようと思います。

タイトルの自動詞というのは文法用語で、動詞を説明する時のもので他動詞と対比されるものです。欧米の言葉には自動詞、他動詞という区別が必ず見られます。ところが自動詞と他動詞の違いを説明するとなると大変で、こんがらがってしまいものなのです。うまく説明できないのです。

他動詞だけ説明するのは簡単と言ってしまえばまだ簡単です。というのは他動詞には必ず目的語があるという単純な理由からです。食べる、飲む、見る、聞くなどは「何を」と言う目的語が、必ずきます。行為の目的です。

ところが自動詞にはこの「何を」が欠けています。言うなれば、動詞なので行動を説明しているはずなのですが、肝心の行動の目的が見つからないのです。立つ、歩く、寝るなどです。

ここで申し上げなければならないのは、日本語は基本的にこの区別が曖昧だということです。したがって日本語しか使っていない人には、この違いが見えにくく説明するのが、欧米の人よりも難しくなります。ここだけは覚悟して読んでください。

 

みるというのは「何かを」みるというふうに普通は使います。信号をよく見て、とか、横断歩道を渡る時には左右を見て、というふうにです。

ところが目の手術をして目に包帯を巻いたとします。数日後包帯が解かれた時にお医者さんが「見えますか」と聞かれた時の一瞬は、何かを見ているというより、見えるかどうかが聞かれているので単純に「見えます」という答えになります。そしてその次にお医者さんが目の前に人差し指を出して「何が見えますか」と聞いた時には「先生の人差し指が見えます」と答えます。

見るはこれではもう立派な他動詞ですが、「見えます」と答えた最初の瞬間は何か具体的なものを見ているわけではないので、見えるという、光を感じているという基本的なところが問われています。こういう状態が自動詞的です。何も見ていないというふうにも言えまずが、全体を見ているとも言える状態です。

 

他動詞的に生きるというのは目的を持ってということですが、自動詞的に生きるというのは、少し違います。何もしていないのか、全部を見ているのかという生き方です。ぼんやりしているようで全体を見ているというわけです。目的を追い求める生き方ではなく、直感的なとも言える生き方です。他動詞的は男社会の根底をなしたもので、自動詞的にというのは女性的なものなのかも知れません。

社会全体がこのような生き方をする方向にAIは人間を向かわしめるのかも知れないなんて考えるのです。

独学の時代

2024年3月10日

かつての天才と呼ばれている人たちは独学から生まれた天才でした。師と仰ぐ人はおらず、また前例のないものに向かってひたすら、黙々と励んでいったのです。協調性はなく社会性もなくと言った一般的な視点からは望ましくないものなのですが、そうした天才が歴史を前に進めていったのも事実です。絶対数からすれば少数派です。しかしこの少数派がAIの時代には裾野を広げるかもしれません。

AI、人口知能は人間に歯向かって来る怖いものように言われているようですが、対立でしか考えられない西洋思想から見るとそういう縮図が浮かんでこざるを得ないのでしょうが、それが惟一だとは思いません。私は、かえって今まで隠れていた人間の姿が明るみに出てくるような気がしています。

天才は教えられたことを学ぶ人種ではなく、とことん問い詰める人で、いつまでも問い続けられる人です。問うことで解を引き寄せる才能の持ち主と言えます。

しかし問うと言っても漠然と質問することはなく問いの中に解が隠れているような問いですから、そこにすでに天才の先天的な閃きが感じられるのです。

私達のこれから向かう未来は今言った天才型の子どもが生きやすいところであってほしものです。解に飢えた子どもではなく問うことにワクワクした子どもに溢れたところでです。

問うことの上手い子どもが伸び代を持った子どもと言うことです。