2024年2月1日
明日日本にゆきます。
寄りによって、明日ドイツの飛行場関係の保安管理職員がストライキをします。例外はバイエルンです。私はラッキーにも今回はミュンヘンからの出発を選んだので、ミュンヘンからは問題がないのですが、シュトゥットガルトからミュンヘンまで電車で移動しなければなりません。あの大半の列車が遅れるというドイツの鉄道でです。
今回は講演会という流れは少なく、両親が住んでいた実家の売却の話を進めなければならないので、そちらに時間が取られそうです。
それでも三週間ほどはちょこちょこと動いています。
結城、名古屋、京都、広島、小郡、熊本、などです。
のんびりとみなさんに会えることを感謝しながら、楽しい時間を持ちたいと思っています。
2024年2月1日
先日のポーランド系カナダの青年ピアニスト、ヤン・リシエツキの演奏を聞いていた時に、ふと「この青年は、いま本番でも練習しているのかもしれない」と思ったのです。演奏の質の高さを思えばもちろん猛練習して本番に向かっているはずなのですが、それでも彼の演奏はさっきまで練習してきたものを舞台で披露しているというスタイルではなく、聴衆を前にした音楽会ですからもが、練習の時間なのではないかと思ったのです。
というのは私も講演をするときによく「今日の講演は明日の講演の準備です」と言っていたからです。多分わかりにくいと思うのですが、勉強してまとめたものを講演会でお話しするというスタイルを私は取らずに千回以上講演してきました。もまとまってものをろん初めからそのようにしようとは考えていませんでした。初めのことろは整理して皆さんにお話ししているだけでした。ある時「それでは講演していてもつまらないのだ」と感じたのです。今喋っていることは全て今までに考えたことでしかないからです。過去を引き摺っているだけで、今と、明日からが抜けでいるのです。未知に向かうワクワク感がないのです。
講演は人によってスタイルがずいぶん違いますが、私の場合は講演していると、多くのことが浮かんだりするのです。そんな時は「そうだったのか」と内心ワクワクしたりしていることがあります。それと会場の雰囲気の中に今日喋ることが蠢いているようにも感じるのです。聴衆が何かを持ってこの会場にいるということが、とても大きな意味を持っているのです。それを無視しては今日の講演会の意味は半減されてしまいます。まさに人の顔を見ながら講演をしていると、いろいろなことが思い浮かんでくるという訳です。
音楽の演奏も同じで、練習したものを披露するだけでは物足りないものです。今を演奏するということも音楽会をイキイキしたものにするためには大切なことのように思うのです。
ライアーのワークショップなででは、練習はしすぎないでくださいと口癖のように言っていました。音楽が硬くなってしまうと懸念していたからです。練習は大切ですが、しすぎないことが大事です。過ぎたるは及ばざるにすぎずです。
頃合いをどころに見つけるのかは難しいものですが、基本的には今のAIブームの中で、お勉強に費やされたエネルギーが方向を変えていることも同じだと思うのです。かつての産業革命の時はブルーカラーが機械の出現により職を失ってゆきました。今はお勉強をしてきたホワイトカラーが職を失うのです。高学歴の面々がAIに押されて居場所がなくなってしまうのです。人間が勉強してかき集めた知識の何十倍何百倍という知識がAIの中には蓄えられています。太刀打ちできないのです。AIの出現は一生懸命勉強する人たちへの警告でもあると思っています。
小さい頃から練習したり、塾に通って猛烈に勉強することで周囲から評価される時代はそろそろ崩れ去る時期に差し掛かっているのかもしれません。演奏者も聞き手もこれからは違う感性で演奏し、受け止めることができるようになって行くのだと信じています。即興的な要素と言っていいのかもしれません。
2024年1月31日
ポエジーという言葉の意味は凝縮するということです。ドイツ語の詩も同じで凝縮を意味しています。
散漫とした想いを固めてゆくことです。そもそも想いというのは重いので、心の中で沈んでゆくものですが、そこからさらに凝縮したものがポエジー、つまり詩というわけです。というわけで、詩というのはなるほど読み応えがあるわけです。散文は散漫としているところが取り柄ですが、間違うとぼやけてしまうのですが、ポエジーというのは実はしっかり安定しているものなのです。
散文詩というジャンルがあります。散文でポエジーを綴ろうというわけですから、相当文章力がないと書けないものだと想像します。ドイツ文学の中で言うとノヴァーリスがこの分野を意識していたように見受けられます。
散文とポエジーを綴る文章との対立があるから散文詩などと考え付くのでしょうが、日本語のようにそもそも散文といえどもポエジーをたくさん含んでいないと文章としてはつまらないスカスカなものと受け入れられてしまう世界では、殊更散文詩などと言う必要がないため、この分野は分野として独立したものにはならないのです。日本語は散文とポエジーの間にあると言って良いので、殊更に散文詩という言い方が必要ないのかもしれません。
詩の言葉をここでは、潤いのある言葉としてみたいのです。しっとりした言葉ということです。その反対に日本語の中で一番渇いた言葉、渇き切った言葉は何かと言うと、法律の言葉です。六法全書だと思っています。確かに六法全書は日本語で書かれていますから、日本語で説明された法律です。しかし日本人の頭脳で六法全書が書かれたかというと、日本以外の頭脳の力を借りて作られたものなのです。「ドイツ人の頭脳無くして日本の六法全書はない」と言われる所以です。
法律用語にはあまり縁がない生活をしていますが、時々法律用語に付き合わされることもあります。そんな時毎回、「これ日本語でいうとどういう意味ですか」と聞きたくなるような文章です。この言葉の中に毎日いたら人間が変わってしまうと思えるほど乾燥し切った異質な文章です。感情というものを挟まない文章ですから、私のような人間には「わかった」と言える瞬間が持てないのです。何度読んでも堂々巡りで、どこにも辿り着かない文章です。
ドイツというのは法律用語で生きているようなところがあります。
例えばアパートを借りているとして、貸主と店子の間てややこしいことが起こった時、二人の間で口論になることはないのです。そこに必ず弁護士が介入してくるのです。したがって喧嘩は弁護士を通してするということになりますから、弁護士さんが使う言葉には感情が入り込まないのがベストということになり、法律用語も自ずと感情の混ざらない言葉ということになるのです。
因みに、私はこういう国で四十七年生きてきましたので、実は結構感情抜きの言葉も操れるのです。それをあまり長く使うと中枢神経が悲鳴をあげるのでやりませんが、日本人には有り難くない言葉です。しかしそれがなんと六法全書に生きているのです。
おせっかいがましいですが、ドイツの将来の課題は、もちろん日本の法律用語もですが、六法全書からボエジーへということかもしれません。感情の通った言葉ということなのかもしれません。知的に凝縮したことはではなく、感情的に凝縮した言葉ということなのかもしれません。