もう一度、韻文と散文について

2024年1月26日

機能ブログを公開した後、なんだか書き足りていないような後味があったので、追加します。

 

もっとはっきり言っておけばよかったと思ったのたのは、日本語には韻文がないと言うことです。西洋の言葉は基本が散文ですから、言葉で詩心を遊ぶには散文ではものたりいのだと思います。

元々散文はギリシャ時代には表現の唯一の手段だった韻文が崩壊したことでできた言葉です。まさに形あるぶんがバラバラになったのが散文です。散らばってしまった言葉が散文です。ですから西洋の詩心は先祖返りをすると言うことです。そちらの方が歴史を生き抜いた力があり、表現としてこなれていると言うことです。散文で詩心を謳うと言うのは西洋語の場合難しいのだと思います。

 

日本語は違います。散文になりきれていない言葉、それが日本語なのです。詩心が強すぎるからです。詩心は純粋であり、透明であるので散漫な気持ちからは生まれてこないものです。恋心のようなものです。なんとなく好きという恋はないのです。恋は盲目になると言われるほどの情熱が伴わないとできないものなのです。

日本語はそういう意味では熱い言葉と言っていいと思います。それに引き換え西洋語は覚めた(冷めた)冷たい言葉です。だから哲学のようなものが生まれ、それを言葉にできるのです。日本語では哲学が語りにくいものです。もちろん日本語でも哲学はできます。西田幾多郎の「善の研究」は立派な哲学書ですが、直感に結びつけた日本独特の哲学で、西洋的な、覚めた散文による冷たい思考を展開するものではないと思って読みました。

日本語は自然界、宇宙との結びつきが強い言葉です。日本語は「はじめに言葉ありき」とは言わない言葉です。ここで言うところの言葉とは単語です。意味であり、理屈です。はじめに言葉ありきという西洋の出発は理屈をこねることだったのです。日本は自然と一体化する言葉ですから、「初めから自然と共にあった」ということです。「松野ことは松に習え」という芭蕉のような姿勢です。

 

昨今は世界的に日本への関心が強いようですが、ドイツから見ていると、関心の持ち方が今までの旅行ブームとは少し違うような気がしています。もしかすると私が日本人だからエコ贔屓のようなものが混ざっているのかもしれませんが。

日本には世界に類のないものが数多くあります。これは日本人にとっては当たり前すぎて気付いていない世界です。しかも日本で滅びつつあるようなものに外国の人たちがかえって興味を抱き、学ぼうとしていたりします。その人たちが一生懸命日本語を学んでいます。きれいな日本語を話す人もいます。西洋人は理屈で言葉を理解しますから、言葉の習得は早いようです。日本語で討論などしています。それは彼らの得意分野ですから、日本人以上に日本語で討論できるのです。しかし日本語の美しさは討論の時に見出されるものではないのです。西洋語からすればぼんやりした、曖昧な表現の連続が日本語なのです。しかもそこに見えないロジックがあるように思うのです。

日本語のもう一つの特徴は、西洋語に見られるような厳密な文法がないと言うことです。言葉の繋ぎ方の法則のようなものがあるだけです。言葉がロジックのためのものではないからです。そこから日本の詩の文化、和歌、俳句の文化が生まれるのです。長歌、短歌などです。長歌にはふんだんに枕詞がかかります。柿本人麻呂の長歌などは、枕詞と被枕詞でつなげていると言っても良いくらいのものがあります。現代語に翻訳しても意味が通じないものもあります。

古代ギリシャ語に詳しい人から、古代ギリシャ語にも日本語で言うところの枕詞があった、と聞いたことがあります。「赤紫色した海」とか、「木霊する山」という言い方が普通だったのだそうです。古代ギリシャ語は散文以前の、いわゆる詩心を語る形式を持った韻文の言葉です。文法ではなく、言葉のリズムと響きが言葉を支えていた言葉ですから、日本語に通じるものがあるのかもしれません。

詩の話ばかりしていると、リアリストたちから浮世離れしていると揶揄われてしまいますが、人間という存在は両面を持ったものだと思っていますから、詩心を失ってしまった文明社会の方がかえって片手落ちなのではないのでしょうか。

韻文と散文

2024年1月25日

散文などと改めて言われると、なんのことかと思われるかもしれませんが、普通に使っている文章のことです。

それに引き換え韻文というのは詩を読む時に使う言葉と言って良いものです。

ただこれだけのことなのですが、この二つに見られる言葉の使い方の違いは決定的で、私はこの間でもがいています。

 

散文については今更いう事はないと思いますが、厳密に言えば、散文の中にも小説を書くときとか、研究論文を書く時とか、あるいは機械の説明書を書く時とかといくつかに分けられると思います。新聞記事の言葉、手紙の言葉も散文ですから、穂伝承のほとんどが散文だと言って良いと思います。しかし散文の中のそういった違いは、散文と韻文の違いからすれば微々たるものと言って良いので、とりあえずは散文と一括りにして間違いではないでしょう。

さて今度は韻文です。韻文の「韻」と言うのは同じ響きの音を繰り返す時「韻を踏む」という詩のテクニックからきています。その「韻を踏む」と言うのは、つまり同じ響きの言葉を重ねることからきています。

日本では、和歌や俳句は言葉の数、五・七が中心になるので、響きで調子を合わせる事はしませんから「韻を踏む」と言うテクニックは使われません。ですから韻と言うよりは「詩歌の時の言葉、詩の言葉」といった方が説明としてはわかりやすいと思いますので、これからはこの言い方にします。

 

詩の言葉の特徴は、今見た韻を踏むと言うテクニック的なことを別にすれば、基本的には、直接の意味ではなく譬えで言い表されることが多く、例えば「月が雲に隠れる」という自然現象を、読み手の心の有り様、例えば「愛する人がいなくなってしまった」、というような具合に使います。いつもワンクッションがあるので、散文のように直接言うのとは違います。散文では「ネジをあまり強く回さないように」と説明書きにあったらその通りで、それ以外の深い意味はそこにはなく、ただ「ネジを強く閉めないようにしなければならない」のです。詩の中でこのような使い方がされたら、「相手の気持ちをあまり束縛しないように」、と言ったような回り道をしなければなりません。

特に日本の和歌にはそうした使い方が主流です。自然の姿、四季の移ろいと言ったことと重ね合わせ言葉にして、その裏に別の意味を託しているのです。

なんでこんな面倒くさいことをしなければならないのかと考えるのは現代人だけで、昔のインドでは数学の論文ですらも詩で表現しなければならなかったほど、詩の言葉が支流だったのです。

それは人間が存在として自然と共に生きているからで、文章を書くときには自然と書き手とが呼応しているということが前提となっていたのです。現代人の自然観は違います。人間がそもそも機能するものとしてあるだけでなく自然もきのするものですから、極端に言うと自然保護としての自然でしかないので、そこからは詩の言葉が生まれてこないということです。自然といえば二酸化炭素という言葉が羅列されることになります。

 

俳句に「季語」というのがあります。実は俳句の生命なのです。今の人が俳句を読むときには、季語などはどうでもいいものに見えるものかもしれませんが、俳句とは四季と共に戯れる遊びなのです。俳句と言うのは、読み手の心情を、心理学的につらつらと述べるための手段ではないのです。自然の中の自分の立ち位置のを感じさせ、読み手と共感するわけです。それが読まれていないと、両輪のついたリヤカーの片方が外れてしまったようなもので片手落ちということになるのです。

 

今は物事を明確にもしかも証明しなければならないので、自然現象を喩えに使って恋を打ち明けても、待てど暮らせど返事は帰ってこないかもしれません。逆に「何が言いたいの、私のこと好きなの嫌いなの」と迫られてしまうのかオチです。

私は、時代がそうなのだから仕方がないと言って諦めたくはないのです。

現代の文章は、基本的には機械の説明書きのようになってしまったのです。どのように機能するかをしっかりと説明するために適しているのですが、言葉とはそれ以上のものだと思っています。そうなってしまったのは人間自身が機能するためだけのものになってしまったからなのではないかと思っています。

ヤン・リシエツキのピアノを聞いて

2024年1月23日

今日はちょっと唐突なことを書きます。

 

人間というのは一人では生きてゆけないものだから、必然的に集団に組み込まれるようになるのではないかと思っています。そしてそこの生まれる集団は組織化されて行き社会となり、そこに惹きつけられる人にとっては非常に居心地が良い構造物になると言えます。ポジションが与えられ、役割分担がされという具合にです。

ところが人間はどこまで行っても個であるという側面も持っていて、社会に組み込まれるとそこに矛盾というのか葛藤が存在するはずなのです。社会の中で個が再び主張をするようになると、組織が乱れ始め、個がバラバラになってしまい、今度は孤独というものに巻き込まれることになります。

 

知的な人たちは、個々の現象をバラバラにしておけないので概念化という作業を行い、バラバラな個をまとめ、集め抽象化します。それによって理解しようとします。知性の得意技で、知的生活の場では抽象概念が飛び交い、概念用語で溢れるようになります。同時に個々の現象を一括りにした概念の僕のような扱いになります。本来存在価値をもつ個々の現象が蔑ろにされることになるのです。概念用語を自由に使いこなせるようになるのが知的インテリジェンスである証なのです。今日の知的社会ではこのような形がほとんど自然形です。

 

この姿って幸せな姿なのでしょうか。人間は一人一人であることを放棄したり、放棄させられたりしてきましたが、いずれにしろそこからは全体主義が生まれ、不幸への道を歩まざるを得なくなったと歴史は語ります。

理解したような顔をして概念化された知識の塊をぶつけ合いながら議論したりするのが西洋が自慢するディスカッションですが、概念化は均一ではないので分かったつもりになっている同士で議論しても結論には達することがないのです。概念というのは塊ですから結構不純物が多くしかも硬いですから融通の効かないものだからです。

 

こういった事は音楽世界でも起こっているような気がします。上達するために、あるいは演奏会のためにと猛練習をします。音楽かとして一流になるには幼い頃からの特訓が不可欠です。猛練習の末一つ一つの音がまとまってきます。発表会の当日はその成果を披露するのです。今日の音楽のあり方からするとそれ以外は考えられないかもしれません。

ところが、そのような演奏はというと、練習の成果でしかないということになってしまうのです。言い方を変えれば過去のものです。演奏からは過去の集積が聞かれるだけということになってしまいます。そんなのはつまらない演奏のはずです。練習は大事なことです。間違いなく弾けるということはそれだけで褒められて良いことなはずです。しかしもしかするともっと大事なことがあるのかもしれないのです。

演奏会当日の演奏は前日までの練習と切り離してみる必要があるのではないかと思うのです。蝶々が蛹から飛び立つようにです。練習とは違うものが演奏会では生まれて良いのです。血要集はそれを聞きたいのです。変容という言い方もされます。メタモルフォーゼとも言います。その日に生まれ変わった演奏をです。

もし演奏会が練習の成果だけのものだとすると、その演奏会はスーパーで袋入りになって売られているようなものと言えるのではないのでしょうか。演奏会当日は練習してきたものを全て忘れてその日だけの、演奏している今という貴重な瞬間を聞かせてほしいのです。勿論その演奏には昨日までの練習が煮詰まっているわけですが、変容させ、メタモルフォーゼされたものをです。あたかも当日初めて演奏するかのような気持ちで演奏されたら、聞き手にも新鮮な印象が伝えられるのではないかと思うのです。

もし演奏会での演奏が練習の積み重ねだけだったら、概念化された塊のように硬いものでしかなくなってしまうと思っています。瞬間瞬間が誕生しているような流動的なものでないと音楽の真髄に触れる事はないと思うのです。ということは練習というのはしすぎると危険だという事です。練習は必ずしも褒められたものではないということなのかもしれません。かえって演奏を硬くしてしまうものでもあると言えるのかもしれないのです。

先日ポーランド系カナダ人の28歳の若い演奏家、Jan Lisiecki、ヤン・リシエツキのピアノを聴きました。彼の演奏は驚くほど即興的といっていい自由なものでした。演奏曲目もオリジナルなものでした。前半は六人の別々な作曲家によるプレリュードだけからなるという珍しいものだったのです。高度のテクニックの持ち主ですから、猛練習しているはずです。しかし舞台で演奏している彼はその日の演奏の中に溶け込んでしまっているような印象を持ちました。前半が終わった時の感想は、十曲に及ぶバラバラな作曲家の作品なのに、まるで一つの作品を聞いたようなものだったのです。

コンクールで締め付けられているクラシック音楽の世界の中に、こんな瑞々しい人が育っていることが嬉しく、軽い足取りで帰路につきました。