2026年4月29日
目で見た風景と、それを写真で撮ったものの間には、驚くほど違いがあります。
先日来、庭に満開に咲いた黄色いローズ・オブ・チャイナが、例年以上の咲きぶりで、写真に収めておこうと試みたのですが、何枚撮っても目で見た時の満開の圧倒感が写つらないのです。角度を変えたり、朝日の時に写したり、昼間の一番明るい時を選んだりとやってみたのですが、目で見たような姿が写っていないのにガッカリしたのです。色の感じは明るさを調節してなんとか近い色に落ち着いたのですが、全体の雰囲気がまるで違うのです。
以前にも木に止まっている珍しい渡り鳥を写真に収めようとして、シャッターを切ってみてみると、止まり木がやたらに大きく写っていて、撮りたかった鳥は目で見た時の半分もないほどの大きさにしか撮れていなかったのです。
目に見えている風景とかの姿は、見たいものが何かの働きで誇張されているのです。簡単にいうと主観的に見られたものだということです。その人が見たいものが選び出されて見えているということで、それを写真に期待すると、写真は客観的というのかそのままを寫すものなので、遠近は見た目ではなく実際を写しますから、相当違ったものになってしまいます。
視覚の世界が一番主観的に生きている様ですが、聴覚にしても、人間というのは聞きたいものをまず聞いているということで、やはり聞きたいものを聞いているという主観の世界に変わりはないようです。このこともマイクを使って録音してみると、はっきりするもので、聞きたいものよりも近くの雑音が一番はっきり録音されるのです。
感覚を通して映った世界をみてみると、特に写真やマイクを通したものと比較してみると、人間の感覚生活というのは「主観の塊」であることが納得できます。
人の話なども、よく似ていて、実は聞きたいところだけを聞いているものなのです。私の講義録を作ろうと、お話をマイクを通して録音したのですが、それが上手く行かずに、苦肉の策として主催者の十人がノートしたものを持ち寄って、私風の話し言葉に変えてみようとしたのですが、そこで明らかになったのは、十人十色というのか、一つとして同じ様にノートされた物がなかったということでした。それぞれに「仲さん、いつそんなこと言ってた」と首を傾げるだけだったらしいのです。皆さんが聞いた私の話というのはもちろん一つで、皆さん同じ話を聞いていたのですが、そこから何を自分の聞いたものにしていたのかとなると、てんでんバラバラなのです。
2026年4月23日
おんなじことを何度も言う、ではありません。くりかえるということでは同じ様なものですが、少し違います。とはいえこんなことを書くと、「仲さんもそろそろ歳ですかね」と思われてしまうのかもしれません。
ライアーを弾いているときに感じることで、たくさんの曲が弾ける様になるよりも、一つの曲を納得の行くまで弾き込むことの方に幸せを感じていると言いたいのです。気に入っている曲を自分が弾きたいように弾くのです。美味しいお茶をいただく様な贅沢の極みかもしれません。
演奏というのは段階があるものなのです。楽譜が間違いなく弾ける様になったという段階はまだ音楽の入り口にしか過ぎないのです。確かに弾ける様になったというのは一つの達成ですが、実はそこからまた奥があるのです。音符が弾けるというところまできたら、また新たな始まりがあるのです。
一つ一つの音を美しく弾くというのはいつも心がけていることですが、弦をぽつんと弾いても何にもならないのです。やはり作品を弾いてみないといい音が出ているのかどうかはわからないのです。ですから私は必ず出来上がった作品を弾くことにしています。しかも本当に弾きたい曲をです。いつも即興の様に弾いていてはわからないものがあるからです。
まずは弾きたい曲が音符通りに弾けるところまで練習します。とりあえず全部の楽譜が音として鳴るところまで来たら第一段階は達成したことになります。楽譜をマスターし、指遣いも決まると、その次はその曲をどういうふうに弾いたらいいのかを考えます。一つの曲なのにいくつもの可能性があります。初めの頃はまさに暗中模索です。弾く毎に違うふうに弾いてしまいます。十回二十回ではまだわかっていないのです。三十回でもまだ決まっていない感じです。ある程度納得がゆく段になった時に意識的にその曲を弾くのをやめます。その時々で違いますが一週間くらいしたらまた弾き始めます。滑らかに弾ける様になって休みに入ったのですが、久しぶりに弾いてみると、まるで初心者のように下手なのです。忘れてしまったのかと昔はがっかりしたのですが、今では弾かないでいた間に何かが起こっていることが分っているので、がっかりするよりも心機一転また新たに始めます。三、四回弾くとだんだんと昔の感触が戻ってきます。しかし以前とは違うのです。今度は今までとは違うふうに弾いたりしてみます。しかしまだまだ模索中です。何度弾いても「これだ」というところに落ち着かないのです。迷っているのです。自分で聞きたい音を探しているのです。傍目には大変そうですが、実は音を探しているときというのはとても楽しい時なのです。しかも曲となったメロディーを弾いているので、一つ一つの音が前回の演奏の時と比べられるのが実に楽しいのです。音を抽象的に弾いていただけでは、音を比較することができなくなりますから、上達がわからない様な気がします。
たくさんレパートリーを持ってたくさん曲を弾きたいと思っていた時期もありますが、最近は同じ曲を上手に弾けるようになりたいと思うことが多い様です。曲数を増やすことよりも、しつこく何度も弾いては、これでもかと自分を挑発しています。しかしそうして同じ曲を何度も弾いているときに、我ながら「いい音になってきているではないか」なんて思ったりする瞬間が訪れます。一条の光がさすなんて感じかもしれません。
しかし曲が上手に弾ける様になるのが私の目的ではないのです。目標にしているのは一音一音がイキイキと響くことなのです。いい音が欲しいのです。ライアーという楽器はこう弾いてもらいたがったんだと思えるような音が欲しいのです。これは技術を練習しても得られないものです。上手に弾ける様になればいい音が作れ様になるのかというとこれも違います。
上手じゃなくてもいいのです、いい音でライアーを弾きたいのです。
2026年4月22日
ライアーの世界にいるとピアノという楽器が実に便利にできている楽器だ、まさに楽器の女王様と言われる所以だということを感じます。
その一方でこの楽器を弾きこなすのは並大抵ではないと思うことも多いです。
現代は録音という技術のお陰で数多くのピアニストの演奏に触れることができます。もちん録音を通してですから、録音状態などを考慮しなければならないわけです。そこをよく思わない方たちもいますから録音は悪魔の所業だということなのでしようが、私は必ずしもそうは思っておりません。録音には録音の利点もあると考えています。
私がライアーの録音に踏み切ったのは、そうした録音の利点の方を優先したからでした。当時は録音に否定的な方達から随分色々なことを言われたものでした。しかし私が録音した後には、雨後の筍の様にライアー奏者たちの録音が見られる様になりました。
ピアノの録音からは古今東西のものが幅広く聞かれます。録音というのは文学や思想の世界の翻訳によく似ていると思うこともあります。ライブでの生演奏を聞くに越した事はないのですが叶うものではありません。外国の小説も原文で読むに越した事はないのでしょうが、ほとんどは翻訳で読むのが今日の常識になっています。確かに翻訳では原文の持つ本来の味が損なわれてしまうのでしょうが、世界文学を全て原文で読まなければだめだとなると、生涯にせいぜい数冊の本が読める程ではないかと想像してしまいます。
私たちの文明社会はそうした「ズレ」の様なものを克服しながら成立しているとみる応用さが求められているのです。このズレを悪いものと決めつけてしまうと、文明は悪魔の手先によって作られているという解釈になる様です。しかし悪魔とは人間の進歩を助ける存在でいるとシュタイナーが考えていたと知った時、勇気がもらえたのを思い出します。
話が逸れてしまいましたが、ピアノに限らず録音されたものを比べて聞くのは実に楽しい作業です。同じ曲とは思えないような演奏に出会うこともしばしばあります。音楽というのは作曲されたものが演奏されなければ聴けるものにはならないわけで、そこにはいつも演奏者の解釈が介入してしまいます。文学作品でいうと、一つの文学作品に何百何千と翻訳がある様なものです。
そうしたピアノ演奏を聴いている時に、ピアノの持つ優秀な機能性に振り回されて弾いているという印象を持つものが多々あります。鍵盤の上を足速に、イヤ、指速く駆け回っているのですが機械的な演奏です。コロコロと音は巧みにつながっているのですが音と音との間に隙間があるのが気になるのです。響きは駆け回りながら動いているのですが、肝心の音の方はつながっていないのです。その様な演奏は聞いたその時よりも、聞き終わった後、しばらくしてからの方がよくわかります。思い込みの強い演奏もよく似ています。
反対にどんなに早くなっても、響きだけでなく音もしっかりつながっている演奏は音に潤いがあって輝いています。個人的には作品の解釈や表現に凝った演奏よりも、音と音との間に隙間のない余韻の深い演奏を評価しています。解釈や表現はどこかハッタリかがったところを感じるのですが、滑らかに連なった音の余韻からは人間としての誠実さを感じるのです。