余白の意味

2026年9月10日

本を読むとき単行本で読むのと文庫版で読むのとでは味わい方が違うものです。そこに書かれている文章も、文体も、そこから伝えられている意味内容も全く同じでも、読む時の味わい方は違うといえます。できれば、文庫版ではなく単行本で読みたいといつも思っていました。
かつての友人に活字にこだわっているのがいて、夏目漱石の小説は新潮社の活字ではなく岩波の活字でないとダメだというのです。味わいが違って、新庁舎では面白くないと豪語していました。活字で味わい方が違うのは確かです。そう言われてからきをつけていたらはっきりわかるようになりました。そして活字、文庫だけではなく、単行本の余白からも違う印象を得ていることも事実です。一番の違いは行間の幅と活字の周りの余白の割合です。極論すれば、気づいている人は少ないかもしれませんが、本と言うのは余白が大事と言うことなのです。
電子書籍にはそうしたどうでもいいと言えばどうでもいいことが何一つ感じられません。確かに本を読んだのですが、本当に読んだかというと、言い過ぎかもしれませんが読んでないのです。何が違うのかというと記憶に残りません。あの本の、大体あのページのあそこのあたりに書いてあったなんてことはよくあるものです。読みながらイメージ化しているのかもしれません。それが記憶と結びついて、余韻につながっているのかもしれません。
本を読む人口が減っていると言うことですが、本を読むことは人間を賢くさせると思うので、人類ばだんだん馬鹿になっているということなのでしょうか。目で、印刷された活字を追っていると言うのは、目の筋肉が活字というフォルムをなぞっているので、筋肉運動をしているということになります。もちろんディスプレイに映る活字も同様のことが起こっているのでしょうが、活字を追う筋肉の動きは印刷された活字と比べると脆弱で曖昧な動きです。この筋肉運動はごく僅かの運動とはいえ本物の運動ですから、本で読む読書は体力がいるのです。読むというのは確実に筋肉運動でもあるのです。それが記憶というシステムとも関係しています。
ページのレアウトとは大事です。ページの中の活字と余白の比率はどうでもいいことではないのです。余白が大きいとたっぷり読めます。もしかすると余白に見えない活字を書き込んでいるのかもしれません。たっぷり読むなんて普通は言わないですが、それ以外には言いようがないほど大切なことです。みなさん余白に感謝してください。余白がなかったら読んでいて窒息してしまっています。特にバランスです。本を開いた瞬間に余白と活字のバランスは目に入ってきます。それほど本能的に反応している物なのです。
人間に余白を例えると余裕ということでしようか。その人の性格とか能力ではない物です。でも本の時に余白に感じるのとよく似た感触が余裕にはあります。余裕のある人の話は聞いていてよくは入ってきます。学者タイプのギスギスした話し方で窮屈な印象を持ってしまうと、それだけでもう話が入ってきません。余裕はしかし意識して作れるものではないのです。笑顔と同じです。作り笑いはもうすでに病気です。自律神経を損傷します。余裕がないというのは自分でも感じられることで、本人はそのことにちゃんと気づいている物なのですが、どうしようもないのです。
余裕と余白ですが本当に必要かと言われたら、なんと答えたらいいのかわからない物ですが、それともやっぱり必要だと言いたいです。

本のタイトル

2026年9月6日

娘がドイツ語の本を読んでいて、何を読んでいるのかと聞くと、ドイツ語で
「青山美智子っていう日本の女性の書いた本。ドイツのタイトルはコマチさんのおすすめの一冊っていうの、知ってる」
という返事。
「それ小説、それとも本の紹介」
「小説」
本を見せてもらったら、日本のタイトルは全然違っていた。
「お探し物は図書室まで」
だった。

そこで気になったのは、タイトルの長いことだった。昔は小説といえば、金閣寺とか雪国とか、青年とか、心とかでこれ以上短くならないようなものばかりだったのに、最近の特に女性の作家の本のタイトルはずいぶん変わっていて、傾向は長いタイトルがつく。

娘は南ドイツの放送局の音楽部門で、クラシック音楽のマネージメントをやっていて、オーケストラをまとめている。
「最近のクラシック音楽の分野の現代音楽の作品のタイトルも、詩からの引用かと思うくらい長いものが多くてやりにくくて」
という。
クラシックの音楽作品に名前がついているのもあるが、そのほとんどが作曲者本人がつけたものではなく、後世の人がニックネームのようにつけたものばかりである。運命、田園、英雄、ジュピターといったもの。
「現代の作曲家の長々しいタイトルは、クラシックの音楽世界で不自然に長すぎて、プログラムを作る時なんか、うまくまとめるのが大変」
ということらしい。
なぜ最近の小説や音楽のタイトルは長くなったのだろう。

なんの根拠もなく言うと、女性的感性の影響というのか、女性感性が活躍し始めていているのかもしれない。
昔の小説の多くは男性の作家のもの。もちろん樋口一葉といった女性もいるにはいたが、タイトルは短い。社会的に当時はダラダラ長いタイトルなどは本のタイトルに相応しくなかったこともある。男性好みかもしれない。今は時代が変わって男性作家でもタイトルの長い人がいる。
男性的女性的などとは昨今簡単に口にする事が許されていない、まだ禁句とまではいかないがそれに近いものを感じている。男性的女性的というのを別の言い方をすると円における、中心と円周の関係のようなもの。男性的なのは中心で、女性的なのは円周となる。中心はエッセンスで、円周は日常的現象ということで、身近な日常生活からの小説の書き方からすると、長いタイトルの方が小説の内容に相応しい。イデオロギー、美意識、哲学的な内容になるとエッセンスで短い言葉の方が凝縮している。本質的とは言い過ぎだが、円の中心点はそんなところがある。円周は三百六十度日常生活に対応している。どこもそこには日常生活の重みがある。
これが実は女性の強みであってどんな状況にも対応できる。円の中心はどんな角度から見ても同じで普遍的と言えるが、動きがない。
これからは円周と円の中心がバランス良く社会を作ってゆくのだろうか。

音と音楽

2026年9月5日

音楽は音から作られていると考えられています。当たり前のことで、そこに疑問の余地などないかのようですが、案外当たり前ではないかも知れないのです。作品として出来上がった音楽が先行してしまうことが多く、音が単なる素材として粗末に扱われたりしていることを目にするからです。私はこれを致命的だと思っています。
音がぞんざいに扱われ演奏された音楽は耳障りでうるさいです。上手に演奏されて。もうるさいものはうるさいのです。食べ物の時には舌触りが悪いと言いますが、音楽は音が悪いと耳障りなものなのです。音が先か音楽が先かというのは卵と鶏の関係によく似ています。舌触りが悪い料理は折角の味付けなどにもよくない影響が出てしまい、良い印象を与えないものなのです。音楽もよくにいて、音が悪いと聞いていて耳障りになり、音楽が心に届かないものなのです。
良質の音が欲しいということであれば良い楽器を使えばいい音が得られるのでしょうが、それでは楽器に依存してしまっていて、演奏家の音への想いから生まれる音とは違うものになってしまいます。されでは聞き手に伝わらないのです。名器を演奏する人たちにしばしば見掛ける楽器依存症です。楽器がいいに越したことはないのですが、それ以上に演奏家の音に対しての向かい方が、音楽をきいた後の余韻に深く影響してくるのです。
音を作るための演奏技術のことはもちちろん知っておく必要がありますが、知っているというのはあくまで知識なので案外浅薄なものです。実際の演奏のばでは一瞬のうちに過ぎ去ってゆくので、知識で知っていた技術は本番では役に立たないものとなってしまいます。音楽は演奏している時の一瞬がものをいうもので、その時の心の持ちようや、ひらめきによって、作られる音が異なります。一人の人間でも体調のよくない時には満足できる音が出ないものです。心に不安があったり迷いがあったりすると、それも影響しています。
こんなに一瞬に左右される行為は他に見受けられないものですが、私は唯一日本の古くから伝わる武術にはそうした考えが生きていると思っています。
オイゲン・ハリゲルの著した弓道に関する文章は、西洋哲学を学んだ知識人が、知識から離れてゆかなければ弓を射ることができないと悟るまでの道のりを綴った貴重なものです。彼が極めた心境はドイツ語で「Es schießt」という言葉で要約されています。私という意識が的に向かって矢を射るというのではなく、弓を射るという状況が熟した時に弓矢は自ずと弓から離れていゆくのだ、ということを「Es schießt」で表現したのです。日本語で言えば、「弓を射る人と弓を射ることの間に隙が無くなった瞬間」と言えるのかも知れません。迷いがない、迷いから離れたということです。的を狙っている時には、本人は気づいていないのですが、実は隙だらけなのです。頭で整理して弓を射れと命じても、迷いがそのまま弓矢の軌跡に現れます。そうして射っても的に当たることはあるかも知れませんが、それが連続した時にそこに生じていた隙がやはり尻尾を出してきます。考えて放たれた弓矢は、弓と人の間に隙があるのです。それは経験としてしか把握できないもののようです。
音楽も、楽箏や楽曲の構成、強弱の表情付けなどで音楽の外枠を作っても、演奏している人と音の間に隙があると、耳障りなもので終わってしまうのです。名演奏とか、楽器の名手と言われる人の演奏にも、よく聞いてみるとその致命的な隙を感じてしまうことがあるのです。
音から音楽が生まれるということのようです。