王子と乞食。金持ちと貧乏人

2025年3月8日

王子と乞食という話しを子どもの頃にワクワクして読んだ記憶があります。立場を変えては見たものの、結末は、やはり育った環境が一番いいというもののようでした。都会のネズミと田舎の鼠と言う話しもよく似たもので、子ども心には何か夢があるようで印象深いものでした。

いい時代だったのかもしれません。

現代社会では貧富の差はますます広がっていると言うのが経済学者の得意な話です。世界が分断されてしまっていると言うのです。これは現実に起こっている深刻なことです。

貧富の差はあっても、それが極端でない限りはあってもいいものなのですが、お金があるところには使いきれないほどがザクザクとあり、ないところには食べるのもままならない貧困状態ですから、緩和できるものなら是非していただきたいと願うところです。

人間同士の間には差があるものです。背が高い人もいれば低い人もいます。太っている人もいれば痩せている人もいます。足の速い人遅い人、山登り得意な人苦手な人、高いところが好きな人苦手な人。差があっていいものなのです。高校の時に一番背の高い185センチの奴が、頭ひとつほど違う一番背の低い158センチの奴といつもいつしょにいたのです。すごくバランスの取れた姿でした。

その違いを集めて統計的に整理して平均値というものを出す人がいます。学校のテストの時に、今回の平均点は何点でしたということが報告されていたように記憶します。平均値というのがなんの意味があるのかがよくわかりませんでしたが、平均点より上だったと喜んでいる生徒もいました。何を喜んでいたのでしょう。

誰一人として同じ人がいないわけです。しかも平均値と重なる人などもいないのですから、平均値というものが何を整理したものなのかと首を傾げてしまいます。それを必要とする平均、ないしは平等という思考方法に問題があるのかもしれません。

戦争の犠牲者である避難民も同じように無くすべきものです。難民を作っている戦争をなくすべきなのですが、戦争で豊かになる人もいるというところに問題があります。その人たちの都合で社会が動かされているからで、豊かな人たちがもっと豊かになりたい社会だということのようです。戦争はそのための手段ですから、戦争は終わらないでほしいと願っている人たちなのです。

今の社会から王子と乞食と言う話しが生まれたらどのように描写されるのでしょう。現代版の王子と乞食です。ビル・ゲイジさんやイーロン・マスクさんがホームレスになって街の片隅に座っているというのは考えにくいです。なぜでしょう。

現代は嫌な時代なのでしょうか。

政治は渦。嘘どころではない騙しの世界。偽善者たち。

2025年3月7日

嘘と本当が混じり合っている世界を生きているのだとつぐつく思うのです。だから嘘もまんざら悪くないと思える。嘘も方便である。法華経という仏典にも方便品がある。嘘には色々な種類があるので、嘘の種類によっては本当が磨かれているのかもしれないと思ってしまうほどだ。

ところが騙すというのは違う。嘘の限界を超えているからだ。人を騙すことは悪質なものである。事実を曲げで騙すことはもっと悪質である。そうした騙すことが悪に属すのは、騙すことで自分の利益だけを考えているからだ。嘘が嘘で終わってしまって跡形もなく消えてしまえば嘘は嘘だが無害である。だが騙すことで利害が加わると善悪の世界に踏み込む。駆け引きが始まり、自分が得をするコツを覚えてしまうと大変である。味を覚えたら最後もう足が洗えなくなってしまう。ここで人間は人相が変わってしまう。政治の世界によくみるものだが、政治を本当を貫きやっている人もいるので、政治が騙し合いの場だとは言えないが、それは本当が世の中に稀にしかないように珍しいことだ。そういう政治家がいると知ると生きていることを賛美したくなる。

騙すことで儲かるのだと味を占めてしまうと人間の欲はもっともっとなので、ますます騙すことが喜びとなって騙しの悦に浸ってしまう。もう人相と言えるものではなくなっている。善悪の感覚が麻痺してしまって、ただ貪欲の道を直走り(ひたはしり)する人は、騙すことに良心の呵責すらも感じなくなっているので顔は引き攣っている。人相は仮面に代わっている。彼らは仮面の奥でほくそ笑んでいる。偽善である。

本当だけでできている世界、そういう世界があるのかもしれないが、私の想像力ではたどり着けない話である。天国というのがそんなものだと書いてある本を読んだこともあるが、今はまだ信じきれない。天国の扉を開けたら光一元の世界が広がっているらしい。そこには影すらないのだと言う。そこが自我とか人格とか言っている人生とは違った次元の話だとすれば、そんな世界もあるのかもしれない。

 

無精髭とボサボサ頭

2025年3月6日

昨日久しぶりに散髪に行きました。

その店を選んで行のは、一人でやっている店主が、初めから終わりまでハサミで髪を刈ってくれるからで、バリカンを使わないでやる散髪は今では珍しいのです。

バリカンで、しかも電気バリカンで頭をかってもらうのと、チョキチョキとハサミの音の音に包まれているのとでは大違いで、椅子に座っていてマッサージをされているような心地になります。店主のハサミはご自慢の高価な日本製でした。

順番を待っている時、周りに貼ってある宣伝用のポスターを眺めていたのですが、最近流行している髪型の写真がたくさんあつて、自分に合いそうなものはあるかなどとぼんやり眺めていたのですが、見つけ出す前に呼ばれてしまいました。

見ている時に、印象深かったのは、最近はみんなボサボサで、一つとして昔のように七三に分けピシッとポマードやチックで形が決まっているものは見当たりませんでした。店主の話だと、ポマードを使う人は今でもいると言うことですが、ボサボサを固定するために使うので、昔のような使い方をする若者はいないと言うことでした。

ボサボサの髪型はだらしないと言うのとは違って、リラックスした伸び伸び感があります。今の若者気質を反映しているようでした。型にはまらない、制度に縛られたくない、他の人と違うという傾向が髪型にも見られるようでした。ただ七十を過ぎたおじいさん向きではないので諦めましたが、二十歳鯖を読んで、やってもらってもいいかなとは思えるほど新鮮でした。

最近の若者達は髭に工夫を凝らしています。無精髭も美的センスのあるものとして認知されているようで、好んで無精髭でコンサートや、パーティーなどにも現れます。ちょび髭だけは流石に戦前の記憶が未だ色濃いドイツでは避けられていますが、昔の仙人のような顎髭は時々見かけます。

戦前は髭が結構見られたのですが、前後は髭なしの方が主流でした。二十一世紀にはいってから新たな髭ブームが到来したようです。ドイツの青年達のほとんどが髭で装備されているようです。

次の世代はどんな出立ちで街を闊歩するのでしょう。