ゼロと無

2025年10月19日

今所有するものを失うなどというのは誰もが避けたいことのはずです。しかも全てを失うことすらあるとなると、それは悲劇的ですらあるのですが、そこを通ることになった人の人生は、予想に反しで逆転して良いほいに向かうことすらあるのです。

そこはゼロの領域と呼ばれています。殺風景な殺伐としたところかもしれません。ところがそこを通った人は生まれ変わるチャンスがもらえるのです。失うということは費用面的にはマイナスですが、深く考察してみると必ずしもマイナスだとは限らないのです。資産を失って奈落の底に突き落とされた人より、貧困から富を得たはずなのに、それにも拘らず虚無感に苛まされて多くの自殺者が出ているのです。プラスのはずがプラスでないということもあるのです。

このゼロの領域で何が起こっているのかとても興味があります。物質的な意味でゼロになるばかりではなく精神的にもゼロ体験というものがあります。生きながらにして死ぬのですからゼロの体験は死とは違います。学研的な人などは研究が行き詰まってにっちもさっちも行かなくなることがよくあります。研究というのは順風に進んでいるだけではないもので、知れば知るほどわからないことが増えるものだからです。今までの研究が何の意味もないものに見えてくるのです。精神修行もよく似ていて、修行というのはいつも前に向かって進んでゆくものではなく、空地遊分解のような人格破壊が起こるもので、挫折がつきものなのです。ゼロとの対面です。今までの全ての努力が一変に灰埃となって消え去ってしまうのです。今まで住んでいた家が跡形ものなく焼け野原になってしまった様なものです。

ゼロというのは英語のNothingですから、何もないということなのですが、このゼロの領域、ゼロの体験は、それに耐えることができる人にとっては、虚しさのあるところというものではないのです。むしろ富を得る方が、信じられないかもしれませんが虚しいものなのです。突然宝くじに当たって溺れるような何億というお金が舞い込んできた人たちの悲劇的な人生弾は有名です。何億の宝くじから、果ては何十億の借金を抱えた人は一人だけではないのです。ゼロは確かに何もないということなのですが、何もかも失ってしまうとしてもそこには何か不思議な魔法のような力が働いているのです。

全てを失うことから新しいことが始まるのです。これは抽象的というよりも、現実に色々な状況で聞く話です。財産を失ってそこから新しい人生が始まるといった様なことです。健康もそうで。大病をした人間がそれを克服した後新しい人生観を得て再生するのも同じです。地位や名誉を失ってどん底を体験するというのも、ゼロ体験と言っていいものです。

ここでいうゼロというのは、砂時計に例えると一番くびれた所です。そこを通過するときに変化が生まれるのです。つまり砂時計の砂が上にあるときは計るための量で満たされているのですが、その砂がくびれを通って下に流れると、下に溜まってゆく砂は計られた時間を表します。同じ砂ですが、意味が全く違います。砂はくびれを通ったことで変容するのです。三分計の砂時計であれば三分で上の砂は全部下に落ちてしまい、逆に下の器には上から流れてきた砂が溜まって行きます。三分をどちらで計るかは人によって違うかもしれませんが、失われた三分か、つまりマイナスされてゆく三分か、それとも足し算で蓄積されてゆく三分かという違いですが、この違いは同じ様に見えて真反対だという興味深いものです。

持つべきは友

2025年10月16日

孤独は現代社会で大きなテーマになっているもので、政治の場にまで進出して、この問題の解決を試みようとしています。解決策を見つけることも大事なことなのでしょうが、原因がどこにあるのかを考えてみる必要もあります。

孤独がどのくらい深刻なのかというと、孤独死の数が急増していることも驚きですが、一週間の間誰ともコンタクトがなかったという人の数も杞憂増しているのです。華やか文明社会の片隅で沈黙した空間があるのです。

11世紀のドイツに一人の王様が、生まれた子どもが外から言葉を聞かなかった場合、初めて口にするのはなんなのかを知りたくで、親に捨てられた赤子を集めて実験したことがあります。その子たちは言葉らしきものを口にするどころか、三つになるまでにみんな亡くなってしまったのです。着るものも食べるものも十分与えられていにも拘らずです。人間は言葉かけをされないと、言葉を覚えないというレベルでは治まらず、命まで無くしてしまう存在なのです。今はまさにその大人バージョンが現代の文明社会という華やかな中で存在してしまっているのです。孤独は感情的に寂しいという心理的な問題ではなく、深刻な死に至る病なのです。

昔から持つべものは友とよく言われています。しかし困ったときに助けてくれる頼もしい人としての例えが友の様なニュアンスがあります。ある意味打算的なものを感じてしまうので、正直素直には受け入れ難いところがあります。困ったときには遠くの親戚より近くの友達などとも言います。お金に困った時などを想像してしまいます。

現代では友の意味が少し違っています。日常生活に困っている時の助けになる友ではなく、話し相手になってくれるだけでいい友なのです。言葉を交わし、心を通わせることで命を繋いでくれる存在としての友です。言葉を交わすだけで人間は命を保てるというのはもう既に証明済なのです。

お金持ちが貧乏のどん底に落ちて自殺する、そんなケースは容易に想像できますが、実際には貧乏から抜け出して財産を築いた人たちの中の自殺者の方が圧倒的に数が多いのです。金持ちになり、社会的ステータスが得られても、そこは虚無感で満ちているからです。お金が沢山あっても、周りに競争相手ばかりで、心を許せる友が居ないと知るときに感じる虚しさほど辛いものなのでしょう。

孤独死の九割が男性というのも衝撃的です。男社会と言われ、未だに、特に日本では女性の社会的地位が低いことが指摘され、弱者としての女性像が強調されていますが、孤独死の数字をみる限り、弱いのは男性で、女性ではないのです。社会的地位というのは究極は打算的な損得の世界の産物です。そこには真の人間性は微塵もないのです。利権のしがらみのような中で地位にしがみついているのですから、定年退職してその地位から外されば、その時点で人間としての価値も無くなってしまうというシステムの中で男性たちは孤独を味わうのです。男性社会には女性社会を賑わせている井戸端会議的なコミニュケーションの取り方がなく、制度化され、機能的に処理するものばかりで、その成れの果てが孤独死とも言えるのかもしれません。

打算のない友達付き合いを持っている人は幸せです。今持てはやされているAIが欲しくても持てないものなのかもしれません。AIが歯軋りをして羨ましがっているのが想像できます。計算ずくのAIの世界にはない、損得勘定から外れた、純粋な人のつながりが友達付き合いの中には見出せます。無駄なような、意味のない、ただいてくれるだけで自分から自分以外のものを引き出してくれる存在が人間は必要な様です。

 

言葉は生き物、例えば禅の公案について

2025年10月15日

言葉は生き物だと思うのですが、どうしたわけか色々な人からどういうことかとよく聞かれます。意味以上にニュアンスが大切たということですと伝えています。

今年はドイツも猛暑でした。39度まで気温が上がる始末で、日陰に入ればなんとか凌げた昔の夏が恋しく思われるほどでした。

そんなある日、日本語を勉強しているという人と話をしていて、丁度日陰で話しているときでした。いい風が吹いてきたのです。その人が「涼しいですね」というのを聞いて、日本人ならそうは言わないのではと思って、その後色々と思い巡らしていました。その時は何も言わずに「そうですね」とだけ言って終わったのですが、なんとなく違和感があったのでした。。

後日、別の日本語ができる人と話をしていて、その時の状況を説明すると、「仲さんだったらなんと言ったのですか」と聞かれたので「いい風ですねと言ったと思います」と答えました。「涼しいですね」ではいけないのですかときかれ、それでもいいわけですが、なんとなく日本語ではない様な気がすると答えました。日本人は暑いとか涼しいとかいうのは、直接は言わないものだからです。私には「いい風ですね」の方がより日本的な言い回しに思えたのです。風が運んでくれた涼を讃える方が、自分が涼しいと感じていることを言葉にするよりも状況がイキイキとしてくる様に思うからです。

こういう言い回しはドイツ語にはほとんどなく、自分がどう思っているのか、どう感じているのかがまず第一ですから、そのことをはっきりいうのが、ドイツ語的と言えます。「いい風ですね」と言っても「そうですか」と相手にされなさそうです。風が吹いたので、本人が涼しいと感じたという流れです。

英語の「I love you」を「月が綺麗ですね」という風に夏目漱石が訳したということですが、それほど飛躍しなくでもいいとは思うのですが、「涼しい」というより「いい風ですね」と自然を讃える方が奥ゆかしさがあって、日本的風情が滲み出ています。そんなの遠回りと感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、この遠回りが奥深さ、面白さにつながるのだと思います。

禅問答に公案というものがあります。常識を超えて問答がされるのですが、このとんでもない問いと答えの中から悟りの道を見つけるという、禅ならではの格別の問答です。日本語というのはもともとこの公案の様なところがある様に感じています。例えば俳句の面白さは、説明上手というところにあるのではなく、全く方向を異にした様な発想を三つ並べて、一つの世界を浮き彫りにするというような妙技が、俳句の中では上等とされる様です。今や俳句は世界で愛され、数多く読まれていますが、他の言葉になると、俳句はもっぱら詩情の説明の術になってしまい、基本的には季語を使ったりしてはいるものの、川柳的な俳句が主流の様です。

ところが先日禅の考案についての講演会が行われたのです。それほどにドイツもなってきているのです。三十年前では考えられなかったことですから異変と言ってもいいくらいです。ドイツ語というのは、当時の常識からすると、論理的に整理することが至上命令でしたから、公案なんてナンセンスの塊で、即座にゴミ箱入りでした。ところが最近は知性だけではなく感性も、少しですが発言権を持ってきていて、矛盾したものなども受け入れる様になってきたのです。そこにこの間の考案をテーマにした講演会です。公案は矛盾の領域を遥かにこえ、ナンセンスなのですが、真面目で論理的なドイツの人がそこにも食いついてゆこうとしているのを感じるのです。ドイツも捨てたものではないと思ったりします。

意味から導き出せば 涼しいも、いい風も同じような結末になるのでしょうが、意味だけでない余韻の中で生き続けている様な取り止めのないニュアンスが日本の言葉にはあって、しかもそれがとても重要な要素であって、そこに至るにはただ言葉を勉強しただけではだめで、公案の様なナンセンスの中に真実を直感するようなものが身に付かないと、わからない事の様です。

ここで一つだけ付け加えないといけないと思うのは、シュールレアリズムというのがヨーロッパという土地に、二十世紀初頭にうまれ、それはヨーロッパの中で唯一ナンセンスにセンス(意味)を見出す努力をしていました。戦時中は軍部の猛反対にあって勢いを剥奪されてしまいましたが、私は個人的に精神衛生上とても大切なものと感じています。言葉でもナンセンスを見つけ出して、そこに新しいセンスを見出そうとしていて、そんな作品もいくつか生まれました。ミヒャエル・エンデさんの「鏡の中の鏡」はそんな作品だと思っています。現実世界から離れて考えるということについて言えば、西洋的公案なのかもしれません。