2026年8月31日
昔は、名物に美味いもの無しと言って、御当地グルメは評価どころか、こけおろされていました。私が小さかったころの日本は貧しく、旅行に行って来ましたと言ってお土産をいただくことなんて、滅多どころか全然なかったことで、各地にどんなものがあるのかの情報すらなかったのです。
私が日本各地の美味しいものに出会うことになったのは、日本各地に講演会等で呼ばれるようになってからのことです。日本各地でその土地の人に出迎えていただいて、その人たちのご自慢の食べ物を口にした時に、経済成長以前の東京しか知らなかった私は、まさに井の中の蛙大海を知らずそのものでした。日本各地にはこんなに美味しいものがひっそりと存在していたんだと知って、かえって東京の食生活の貧しさに気付かされたのでした。
それぞれの土地にはその土地の気候風土があり、そこで生きる人たちにとってその気候風土の恵みは、彼らの味覚だけでなく人間性まで育て培っててきたのです。その土地の人とその土地の味の間には一寸の隙もないのです。
方言と標準語にもよく似たことが見られます。東京で生活するには標準語を喋ることが望まれ、地方の方言が持つ癖やアクセントは訛っていると言われ、コンプレックスの原因にもなっています。名物に美味いもの無しと言うのはそのような背景から言われたのではないかと想像します。
私は方言を持たない東京育ちでかえって方言を持たないことにコンプレックスを感じるほどではないのですがもどかしさを感じていました。訛らない標準語より魂のアイデンティティのある方言を持っていることがどれだけ大切かに、外国に出て気付かされた時に、その気持ちが爆発しました。私が日本語という方言を持っていることがどれほどありがたく感じられたかは、外国には自分の言葉と言えるものを持てずに育った人たちがゴマンといることを知った時でした。何カ国語も喋れるのに自分の言葉を知らない悲しい人たちです。自分の魂が根っこを張っている言葉を持たない悲しさです。
今は方言万歳、名物万歳と声を大にして叫びたいです。
2026年8月30日
過ぎたことは蓄積されて残って、経験というものに変化します。沢山経験した人は豊かな記憶を生きることになります。過去に起こったことは変えられないので全てをそのまま受け入れることになります。食べた物のようなもので摂取して人生の栄養になるのです。記憶として残っているため思い出して、あたかも今起こっているかのようにリアルに再体験することもできます。
現在は刻々に過ぎ去って行っているのですが、体験としての今は幅があって時計のように秒単位というわけではありません。今には個人差がするというとこが面白いです。携帯やスマホを常に持ち歩くようになってみんなが世界共通の時間で生活していますが、少し前まではみんなが腕時計をしていました。興味深いのは皆が同じ時間ではなかったことです。時計が正確でなかったこととは別に、人によっては一分進めている人がいれば、三分とか五分も進めている人がいたのです。テレビやラジオで朝に世界共通の時間を確認してその後個人の好みで腕時計の時間や家の柱時計の時間を進めるのです。
今起きていることは純粋に体験しているだけで判断をしてない状態ですから、ある意味小さな子どものようなものと言えます。今を生きるとはそういうことです。
意識と言うのは記憶として蓄積されたところに外から種のように舞い込んできて、そこで発芽してゆくものではないかと考えています。今と言うのは相当の部分を無意識のなかで生きているような気がします。外から種がやってきてもその瞬間はまだ何が起こったのか分からないままなのです。
その種がやってくる方向が未来からです。未来というのは無意識以前といっていいと思います。まったくもって未知の、私たちの判断の枠を超えたところの存在です。ただ私たちの存在と無関係ではない不思議な謎に満ちた、私たちの人生に多大に影響しているものです。未来がなかったら私たちは一方通行の道をただただ前に向かって進んでいるようなものなのです。
2026年8月30日
現代社会の特徴は情報が溢れていることに加えコミュニケーションの迅速化が進んだことでしょうか。三十年前には想像すらできなかった状況になってしまいました。勿論人間がそれを求めたからそうなった訳です。最近はそれにAIが加わって知的社会は隙間がないくらい整っています。
今この状況で言えることは、少し大雑把な言い方ですがみんなが似てきてしまったことです。これがいいことなのかどうかは別として、もう少しバラバラな足並みが揃っていないほうが、ズレを楽しめたような気がします。
知的社会に飲み込まれてしまうと感情生活はまるで条件反射のようになってしまいます。即返答が求められるとどの様に変化するか考えて見てください。一人ひとりの感情にはそれぞれのテンポがあるものなのに一律であることが求められると感情まで同じ反応をするようになってしまいます。感情生活は足並みが揃わないことが本来の姿なのです。
スローライフのような運動が知的社会への反動として生まれるのはある意味必然なのでしょうが、それが健全な感情生活を取り戻すためにどれだけ役に立つのかは分かりません。復古調的なもので終わってしまうかも知れません。
それよりも人間は一人ひとり違うのだと言う基本をしっかり確認することのほうが効果があるように思われます。みんなで一緒にゆっくり生きましょうでは元の木阿弥の様に思うのです。