2025年6月2日
子どもの頃にイソップの話はたくさん聞かされたように記憶しています。出典は古代ギリシャですから、人類の歴史の中を長く読み継がれてきたものと言えそうです。
それらを大人になってから思い出してみると、意外と教訓がましいところが鼻につき、説教くさい話だと疎うようになりました。
説教的な行為は人間の性と言っていいものなのでしょう、特に大人が子どもに接するときに一番顕著に見られるものです。教え諭すという風潮で、それで世の中がまとまると考えるのでしょう。
しかし説教というのは決していい後味を残さないものです。神職にある人、僧侶、教師、警察官とかいう説教を職務としたものがあります。ところが、尊敬できる神職の人は説教をしない人ですし、尊敬される先生はやはり説教がましくない人で、それどころか子どもの話をよく聞いてくれる人であるし、頼りになる警察官ということになれば、人を見れば犯罪人というところから離れている人です。余談ですが、今あげた職業を親に持った子どもたちというのは、皮肉にもさまざまな教育場面で問題を持つ子どもたちであることが多いのです。
説教的な話とか、教訓話という類のものは、一見倫理的道徳的に見られため、教育的な効果のあるもののように見られがちですが、実は思ったほどの効果が得られないものだと思います。私の経験で言えば説教・教訓話は独特の後味を持っていて、決していい後味とは言えないどこかべっとりしたものが残るものです。決してまた読みたくなるものではなく、かえって「またか」と反発してしまうものです。文学的な世界では教養小説のようなものもどこか説教くさいものがあるものです。文学が芸術であろうとするときには、そうした説教世界から離れるものです。説教せずに人類を導けるのです。説教以外に人を導く力があとということを知って初めて芸術のレベルに至るので、かえって規制の考え方を破壊するものであったりしますから、常識的に考えている人たちからすると危険な考え方、感じ方でもあるのです。芸術というのは既成概念との摩擦から生まれるものでもあるということです。
古来読み継がれている説教話は人を規制の中に収めようとするところがあります。イソップが当時の古代ギリシャの中の奴隷階級の人であったことがイソップの話の根幹にあるのかもしれません。規制的なものを破壊するのではなく、その中にキチンと収めておこうという意図が働いていたのかもしれません。教育学という意味のPedagogyという英語は、ギリシャ語のpaidagogeから来ていて、元々の意味は奴隷の子どもたちの引率ということです。子どもを正しい仕事の所に引率する係のことです。社会秩序を守ろうとする考え方かもしれません。それが教育であり戦線という人の仕事だったのです。
現代は新しい秩序を見つけようとしていると言えるのかもしれません。そのためには秩序の崩壊が必定ですから、今はとんでもない混沌とした社会状況が私たちの周囲を取り巻いています。そういう時代背景からすると、やはり芸術という奔放なものが大いに力になるのではないかと考えるのです。今までの延長に未来はないということだけは確かのようです。新しいというのは形だけでなく、中身も新しくなければならないわけですから、そこが今の時代の産みの苦しみなのかもしれません。
それなのにYouTubeには最近説教話が頻繁に登場しています。いくつか見ましたが、後味はやはりべっとりしてして、本当は何が言いたいのかがよくわからないものでした。お説教的なもの、教訓的なものはやはり表面的な人間理解で、人間存在の深い真理を追求するものではないようです。真理に至るにはある意味で崩壊が伴うものです。芸術はそんな中で生き延びられるものです。音楽を聞いても、絵画や彫刻にしても、どこに行こうとしているのかが見えてこないものだらけですが、だからこそそこに現代ときな意味があるのだと私は考えるのです。
シュタイナーが教育は、奴隷の子どもたちの引率係ではなく、芸術だといった意味を深く考えています。ただ芸術の授業をするということではないのです。教育には新たしい時代を作る力があるということです。新しい子どもたちを世に送り出すことこそ、教育の課題です。まさに芸樹としての自覚を持った教育にしかできないことなのです。
2025年6月2日
雑学なんでくだらないという人もいるようですが、私は全くの雑学派ですから、話は一所に治ってなくて、油断するととんでもない所にまで飛んでいってしまうこともあります。
そのためか、私の講演を聞いた方の中に、人によっては今まで聞いたシュタイナーの話とは違うと感じている人がいることを耳にしたことがあります。「仲さんは本当にシュタイナーの人なんですか」という具合にです。多分私が講演の中でほとんどシュタイナー用語を使わないためのようです。シュタイナー用語が出てこない所にいつもの講演との違いを感じているのでしょうが、私がしてきたドイツの教育会議での講演やセミナーでは、いつも一般の人に向けての講演、セミナーでしたから、シュタイナー用語はご法度の世界でした。というのは一般の人のほとんどがシュタイナー用語で話されてもちんぷんかんぷんですし、シュタイナーの専門用語になってしまうと、その言葉の意味がわからないことで話につまづいてもらっては困るという方針から、シュタイナー用語で語るのはタブーでした。そのためシュタイナー用語を使わずにシュタイナーを語り続けため、シュタイナーの講演らしくないものになってしまい、それがシュタイナーではないのではないかと受け止められたのかもしれません。加えて私個人としては雑学的なものに大変興味を持っていますから話は予想外の膨らみを持ってしまったのでしょう。
振り返ると若い頃は小耳に挟んたことで気になることがあると、それに関しての本をすぐに読んだものでした。若気の至りなのかアンテナを張り巡らしていたようで、三百六十度から色々な情報が入ってきてはそれをもっと知るために本を読むんだものでした。今日のようにインターネットのない時代ですから、情報源はもっぱら本でした。そのうちになんても手当たり次第読むという癖がついてしまいました。
大海原の中にいるように雑学の中にいるととても楽しいのです。世界というのは広いもので、色々な人がいて、それに伴い色々な考え方があり、さらに色々なことが起っていて、雑学の中にいると世界に向けての視野が広がりますから、いつもワクワクしていました。その一方でしつこい所があり、一つのことに変にこだわってしまうと言う別の性癖もあり、二刀流でやっていました。
高校生の頃は、私より五つ位上の人たちは学生運動にのめり込んでいる人たちが多く、彼らの話を聞いていると視野が狭いのにがっかりした思い出があります。何かというとマルクスの資本論が引っ張り出されて、日本語ではむずしいから英語で読むのがいいとアドヴァイスされたりしたものです。私は雑学派でしたが資本ロイは読みませんでした。世の中には色々な考え方があることを知っていたのですが、その人たちにとっては、私のような雑学的なものに振り回されている輩は皮層的と言われ煩わしく邪魔になると、ことごとく排除されてしまいました。私からするとそれを教条主義というのでしょうが、私向きではないので、お付き合いすることはありませんでした。
シュタイナーを勉強している人たちと一緒にいると、若い頃の学生運動的な、視野の狭さを感じることがあります。極端な言い方をしますが、シュタイナーの本しか読まない人もいるのです。私にとってのシュタイナーは幾多の雑学の中の一つなのですから、シュタイナーを専門的に研究していないのですが、シュタイナーを外から見ていることもあります。ですからシュタイナーの持つ味については、シュタイナーだけを勉強している人たちよりもわかっているかもしれません。感覚的に捉えているからでしょうか、他の考え方との比較も楽しんでいます。しかしシュタイナー用語の世界にいる人たちは、意外とシュタイナーの味わい方を知らないのではないかと雑学の徒を自称する私は考えるのです。
論語読みの論語知らずということはよく言われますが、学生運動が盛んだったときにも、シュタイナーの中で勉強している人たちに接していても、この教訓のことを思い出します。実はそう言いながらも一つのことに集中すると他が見えなくなる傾向を私も持っていますから、よくわかるのです。もちろんそれが落とし穴かもしれないとも薄々感じながらです。
是非皆さんにも雑学というのんびりした世界で遊んでいただきたいと思っています。
2025年5月28日
記憶というと過去に起こったことを覚えているという風に理解されがちですが、それだけではないように思っています。記憶に残っているものは、それは確かに過去に起こったことには違いないのですが、それは純粋に過去の事実だけを覚えているのではないということです。何かの力が加わって変形しているのが現実です。それは私たちが目の前に見ているものを写真に撮って見てみると、綺麗に咲いた花が印象深く大きく見えていたのに、写真を見るとずっと小さく写っているのに驚かされるのですが、それに似ています。それは私たちが目で見ているものというのは、見たいと思っているものにフォーカスしていたり、それを拡大しているために綺麗に咲いた花が大きく見えただけで、それは操作された姿なのです。遠くにあるものも同じで、それが見たいと思うと目で見ている時には大きくなっているのです。
どんな力が加わってその操作が行われるのでしょうか気になります。とりあえずはとても主観的なものだと思います。希望、願望というものに属しているものです。そうあって欲しいというものです。少し飛躍しますが、私はそれは意志ではないかと考えています。意志というのは私たちの心の中に潜在的に存在しているものです。私たちというのは、自分だと思っているものは恣意的なもので、自分で決めているだけのものです。それは大抵の場合他者から見た私とは随分違っているものです。私の思い込みは、私だけに通じるもので、他人はそこにはまるっきり関し良していないものなのです。私というのは半ば幻想のようなものに過ぎないのかもしれません。自分探しが一時はやりましたが、そんな中で自分を見つけた人は何人いたのでしょうか。そしてその自分は今でもやはり自分なのでしようか。
前回は思考のことに触れました。そこで思考とは単なる知的な働きではないことを強調しました。思考というと堅苦しいですが、思う、考えるも同じです。知・情・意が総合的に関わっているものとして捉えました。心の中は相当混沌としていると思います。記憶というのも過去の済んでしまった固定化した、変えられない事実をそのまま保存しているのではなく、心の中で主観的に都合のいいように変えられているのです。記憶というのは極めて流動的なものでもあるのです。
思考というのは集められた情報を整理してその上で一つの決断をするようなものです。情報が集まれば思考していることになるのかというと、それではバラバラな知識の寄せ集めに過ぎないのです。樽に例を取ると、樽はいくつかのパーツが組み立てられているのですが、まとめる箍(たが)で締められて初めて樽という形ができ、バラバラが纏まるのです。同じように思考というのは情報というパーツを集めるようなものなのです。箍の役割を果たしているものが、心なのですが、混沌とした中で特に大きな働きをしているのは意志です。意志はまとめ役で、意志なくしてはパーツがバラバラのままなのです。意志の働きがないところで私たちは思考できないのです。
私たちの生活というのは、一日を普通に生きているだけでも色々なことが絶え間なく起こっています。無数のパーツからなっているのです。そして驚くなかれ、そうした一つ一つはお互いになんの関連もないことがほとんどなのです。それが夜寝ている時に一つにまとめられるとシュタイナーは言います。眠りはそのために必要なものだと言ってもいいほどなのです。睡眠とは、一日の間に起こったバラバラな出来事を一つにまとめるためになくてはならないものなのです。纏まるとは言っても意見や考えとして纏まるということではありません。思考というのはただ物事を整理しているだけでなく、物事を統率しようとしているのです。とは言っても寝て起きて次の朝には昨日が一日としてまとまった物して現れるかというとそんなに簡単なものではないのです。ところが徹夜が二日も続いたらと想定してみてください。頭が朦朧としてしまいますが、そこではバラバラなパーツが眠りによってまとめられていないために起こっているのです。思考するための集中力が欠如してしまいます。この集中力が意志の力です。昼は知的で、夜は意志的なのです。起きているというのは知的な活動で、寝るというのは意志的な活動なのです。
記憶というのは、古きを訪ねて新しきを知る、温故知新そのもののようです。一人の人間の中では記憶ですが、文化的には伝統かもしれません。伝統は古くから伝わるものですが、ただ古いだけでなく時代に適応して生き延びてきたのです。そしてそれを受け継ごうとする次世代に引き継がれるのです。伝統もやはり流動的なもののようです。それわ継続させているのも意志の力です。社会的な意志、民族的な意志はどのように機能しているのかこれから考えてゆきたいと思います。意志というのはとても興味深いものです。