携帯の写真機能

2026年8月29日

今や携帯電話に写真機能があるのは当たり前で、しかも写真を撮ることが一番の仕事になっている有様ですから、携帯から写真機能を無くしたら相当のパニックが予想できます。
そもそも携帯の電話機に写真機能を取り付けようと考えたのが日本人だったのです。当初は相当疑問視された様ですが今日のインターネット上の写真の洪水は日本発ということになります。日本の写真工学が世界の80%以上のシェアを占めていることも視野に入れると、日本人と写真と言うのは、一筋縄ではゆかない深い結び付きを感じてしまいます。
日本には俳句の文化が深く根付いています。これが意外と写真文化と関係しているのです。俳句が得意とする表現は瞬間に疑問されたイメージです。西洋のバラードの様に長い話を詩として綴ることは俳句にはできないことです。俳句は瞬間の凝縮感が命です。ダラダラと説明する俳句など、衣がぐたっとなった天ぷらのよなもので味わえるものではないのです。
瞬間を凝縮させるのは俳句と言う形式にあるとはいえ、俳句でも容易なことでは無く、瞬間を感じる感性、言葉のセンスは俳句では決定的な意味を持っています。
写真は瞬間を切り取ります。シャッターを押せば撮るとは言っても、その瞬間が生きた瞬間かどうかは写真の質を左右します。スナップとして知り合い同士で見て楽しめても写真としてどうかは別問題です。凝縮された瞬間が生き生きとした写真と言うのは滅多にお目にかかれないものです。プロの写真家の瞬間を読み取る力は鍛え上げられた職人技です。
とはいえ日本人の持つ瞬間や、空気を感じる感性が、俳句や写真文化を支えていることは確かです。
ちなみに私が弾くライアーという楽器は、どちらかと言うと俳句のように瞬間を音にするのが得意な楽器です。弦に触れ音を聞いただけでこの楽器を買ってしまった人を何人か知っています。そのくらい一音だけで聞き手を説得させる力がある楽器です。
この楽器はドイツで生まれたのですが現在のドイツではほとんど忘れられてしまった楽器です。しかし日本ではどんどんライアー人口が増えています。瞬間を感じる感性が写真や俳句やライアーのつながりを作っているのかも知れません。

真理、真実そして正しいこと

2026年8月29日

タイトルのそれぞれの言葉は注意を引く言葉です。私たちには真理、真実、正しいに憧れがあるのです。
正しい生き方をしたいと思っている人はとても多いと思います。どうしたら正しく生きられるのかと悩んでいる人も多いです。真理の探究者たらんとしている人も多いです。正しいと言うのは理性に叶っているのでしょう。
ところで真理はそもそも何処かにとっくの昔からあるものなのでしょうか?それとも一人一人の人間がそれぞれの生き方のなかでそれぞれの真理と言えるものを手にするものなのでしょうか?
絶対真理と言えるものを信じた時代もありました。もしかすると今も続いているのかも知れません。その絶対真理の代弁者という人か現れて人類を救済すると言うシナリオがです。
絶対的な存在、存在者を否定する積りはありません。しかしその絶対者が真理を具現していると自覚しているかどうかは疑問です。絶対者は真理のことなど知らないからです。それは人間が自分の事を何も知らないのと同じです。人間は自分が真実だとしても、真実である自分のことは知らないのです。勿論真実は自分の外に求めても見つからないですし、自分の中に入っていっても見つからないのです。確かに何処かにあるのですが、どこにもないものでもあるのです。まるで幻のようなものです。
その幻想を正当化して権力に物を言わせ人間を翻弄しようとしている輩がいるのです。
ですから真理が語られる時は何時も注意が必要です。ないものをあたかもあるかのように見せる能力に長けた者たちがいるからです。彼らは言語巧みに正当化して正しいことがあるかのように見せる術を心得ているのです。
正当化された正しいとか真理には惑わされないようにしないと人生を踏み誤ります。正しいも一つのフェイクだと心得ておくとスッキリ見えてくるものです。

五月蝿い

2026年8月29日

五月の蝿と書いてうるさいと読ませる日本語は相当ユーモアを持った言葉といっていいと思います。
とはいえ現実には、ユーモアで返せるほどの余裕はなく、五月に限らずハエは何時も迷惑千万な生きもののようです。
スイスの山にいると近くに牛が放牧されていて、牛の周りに群がっているハエの一部が昼寝をしようとしている私の周りに集まってきて、私の大切な静寂の時間の邪魔にかかるのです。
顔のいたるところに停まって手足を動かすのでこそばいこと極まりないのです。一ぴきならともかく、何時も五六ぴきでかかってくるので、イライラしてきてハエ叩きを手に、来るハエを叩き追いやったり、上手くいくと一時だけ数が減って喜ぶのですが、それも束の間直ぐに五六ぴきに増えて、それまで以上に私を苛立たせるのです。
私のところに来るハエを見て思うのは、何故部屋の中で私が横になっているところだけに集まってこなければならないのかということです。私のところに来れば嫌がられ追い返されることは百も承知なのに、鼻の上とか、くちびるの所とか、まつ毛の所とか、一番嫌がられるところを知って襲いかかってきているとしか思えないのです。
今生でハエを煩わしいと思ったことはありますが、それ以上に迷惑がった覚えはないので前世の因果と受け止めるべきなのか迷うところです。
蚊のブーンと言う、なんとも憎々しい音とは少し違うハエとの付き合いですが、こんなに私を慕ってやって来てくれているのに、私からなんの報酬も得られないなんて可哀想になることも無くはないのですが、それ以上に五月蝿いのでついハエ叩きを手にしてしまうのです。