自分のことを物語る癖
私たちの自分という意識はギリシャ時代にはすでに「汝自身をを知れ」としてみられ、それが今日まで哲学として受け継がれているのです。
近年、その聖なる問いは「自分を探す」というテーマに姿を変え、一般化して普及しています。自分探しが哲学かどうかは別として、自分探しは多くの人が興味を持つテーマとして登場したことは確かのようです。
自分探しというのは「自分とは誰なのか」を知ろうとするものなのでしょうが、自分に向き合うという行為、実は難しいもので危険なものだということは案外忘れられています。哲学で自我と向き合って自殺に追い込まれた人は数多く、そのこともこの分野が一筋縄では行かないものであることを物語っています。
ところが今日の自分探しはポピュラーな面があります。幾つかのメソッドも確立されているようで哲学者たちの迷い込んだ迷路には迷い込まずにいられるようです。ただメソッド化して簡単に自分を探せるようになったということは、自分の持つ癖のようなものと自分本来とが混ざっているような印象を与えてしまうのは否めないようです。
ドイツでも自分探しは流行しましたが、最近は少なくなっています。ところが日本では今でも継続しているようです。自分探しをしている人たちの自分というのが何なのかは人よって違うとは思うのですが、手っ取り早くいうと、自らが作る自分物語の中にある、居心地のいい自分なのではないかという気がしないでもありません。ですから自分探しをする人たちは自分物語を作ってみれば、自分が知りたい自分が自分に一番わかりやすい形で見えてくるのではないかと思ってしまうのです。自分探しといいながらそこでは苦し紛れに自分を正当化しているだけなので自己満足の域を超えていない様子も随分みてきました。
特に日本で自分探しが盛んなのは、日本人が自己主張を苦手としているところが仇となっているような気がします。そこの原因究明が進むと、自分探しは減ってゆくのではないのでしょうか。自己主張というのは基本的には自己正当化から生まれるものですから、他人思いの、他人を優先してしまう日本人はここが大の苦手なのです。ですから自分探しを他人探しに置き換えれば面白いことが起こるのではないかと考えます。ただその時の他人は自分という他人です。自分というのは実は他人でもあったという観点から自分を他人として扱ってみるのです。例えば自分の家に帰るときに「ただいま」ではなく「お邪魔します」と言ってみたりするようにです。片付けなどをしている時に、次に使う人のことを思って片付けてみるのです。ところが次に使うのが自分だったりするのを発見すると案外新鮮です。つまり自分の中に潜在している「自分という他人」に気づくことで、自分と少し距離を置いて自分をみることができると自己満足ではない自分に向かい合えるような気がするのです。
自己主張や自己正当化で凝り固まっている人たちには、他人、他者に対して気を配るということはないのです。他人が見えないのです。自分が大好きで、自分だけしか見えていないものです。この人たちの持ち込んだ自分という固い外壁を壊すのは至難の業です。思考を鍛えてゆけば知的に合理的に解決できると考えている人は、思考が記憶や習慣という名の癖の上に成り立っていることを忘れています。知的な人ほどその壁は頑固ですから、頭がいいと言われる人ほど自分の壁の中に頑固に居座っているものなのです。ということはこの壁は知性をもってしても壊せないということで、別の方法が求められることになります。
癖というのは、無くて七癖と言われるほど私たちの日常生活にこびりついたものですから、なかなか離れて行ってはくれません。瞑想などして日常から距離を置く訓練も助けになりますが、不慣れな瞑想は力が無いので、力強い日常生活からの影響は私たちに襲いかかり続けますから、日常生活から離れることはなかなかできないものです。むしろ何かに集中することの方が、日常生活を忘れるためには役に立ちます。好きなことをやっていると時間が経つのを忘れると言いますが、この時間と言われているものが日常生活の癖と絡み合っているので、時間は癖そのものと言っていいほどなのです。
日常生活から離れた、ある種の無重力な意識の状態の中で、内側から湧いてくるもの、その中に影のようなものが現れてきます。それは自分なのです。ところがそれは自分が考えていた自分とは違うもので、始めての出会いの時は戸惑いますが、それが私たちに自分というイメージを与えている存在なのです。それは芸術的感動によく似ています。芸術作品に感動した時というのは今までの自分が吹き飛ばされるような感触です。そもそも感動というものの力が相当力のあるものなのです。芸術の持つ働きは、結論的にいうと日常生活からの解放と言ってもいいもので、芸術作品に接し、感動しながら芸術へのセンスを磨くことで、自分で見えていない自分と出会えるかも知れません。出会えるとは言ってもほんの一瞬です。陶芸家の河合寛次郎は「自分に出会いたい。仕事する」と言う言葉を残しているほどです。一瞬で消えてしまいますから、説明したり解釈したりとコメントをしている内に消えてしまいます。その自分というのは理屈をつけて説明したり、自分というストーリーを作って自己満足しているところには立ち止まってくれないのです。そこに残るのは自分にとって都合のいい自分なのです。見つけてほしい自分というのは、外からの激しい衝突のような体験によって日常から解放された瞬間のわずかな時間の中に生まれる、まるで他人のような存在なのです。その瞬間は言葉では説明できない微妙で微かなものなのです。
知的な人たちはその瞬間を言葉にして語り過ぎて、かえって新しく生まれた大切な自分を壊してしまっているのかも知れません。






