遊びの本質 その一

2013年1月7日

遊びというのは、言葉としては簡単な言葉で、誰もが簡単に使えるのに、実は人間の深い部分とかかわっていて、哲学すらこの謎を解けないでいるものです。

街に遊びに行こう、といって出かけて案外遊ばれだけで家で帰って来ることもありです。それでも遊んで来た気分にはなっています。

 

遊ぶと遊ばれるは、文法的には、能動と受け身ですから真反対なことですが、こと遊びに関しては、区別が難しく、そんなところも遊びの一筋縄では行かない深さを感じさせます。

遊んでいるつもりでも遊ばれている、そうかと思うと、遊ばれている様で実は上手く遊んでいる、ということです。

そうしてみると、文法が説明する能動と受け身というのは、文法的なところまでしか説明していないということで、人間の深いところでは区別の付かない、渾然一体としたものですから、本当は大したことを説明していないのです。

これが遊びの難しさです。

 

さて今日はある観点から遊びを見ることにします。

「なる」という言葉を通して、遊びの深さを感じもらおうという魂胆です。漢字で書くと「成る」、「鳴る」「為る」「為る」「生る」という具合です。これはみんな遊びにつながります。

子どもは変装とか、「ごっこ遊び」が好きです。この遊びの中で子どもは何かになっています。子どもの顔を見ると、とても幸せそうです。たとえ乞食に変装してもです。

「何に」なるかは本質的なことではなくて、とにかく何かに「なる」というところが本質です。ここを外すと、何かになるための道具立てを周囲がし始めます。道具をそろえることがお手伝いだと周囲の親たちが考えて、いろいろなものを買って子どもに与えるのです。そこで「材質がどうのこうの、つまり木でなければだめだとか」「色がどうのこうの、つまり植物性の色でなければだめ」と教育的観点から物申す人が現れて、「できるだけいいものをそろえましょう」という提唱が始まります。残念なことに、周囲の大人たちはそこに力が入るのです。

 

しかし子どもは「何に」なるかで悩んではいると思うのですが、それよりも大切なのは「とにかく何かになればいいのです」。変身したいのです。何か別のものに「なりたい」のです。この真理は謎です。もしかしたりここに成長の秘密があるのかもしれません。

そのための手助けになるのが綺麗な布の切れ端だったり、そこらに転がっている棒っきれだったりするのです。道具立てとしてはそれで充分なのです。それ以上はおせっかいです。

その端切れを纏った瞬間が大事です。そこで何かに「なって」いるのです。何になったかは、その子どもしか知らないのです。それなのに周囲の大人は、「何になったの」としつこく聞きます。子ども自身も解らないで答えに窮しているのに、大人とは残酷なものです。

繰り返しますが、子どもは何かに「なった」のです。

 

古事記の始まりのところで、「はじめになりましたのは」という一節があります。はじめになりましたのは「アメノミナカヌシノカミ」様です。

この「なる」が何を意味しているのかはいろいろ説があって、宇宙のはじめに鳴っていたのは、つまり響いていたのは「アメノミナカヌシノカミ」様だと考えている人もいますし、「なる」は生まれるという意味でもありますから、宇宙のはじめに生まれたのはでもいいし、「なる」を成るとすれば、宇宙のはじめに出来たのはということです。あるいは為るとすれば、はじめになされたのはということです。

 

子どものごっこ遊びも変身も、この「なる」に通じるものです。これは宇宙の創造に通じるものなのです。

子どもが何かに「なった瞬間」を祝福すべきで、その祝福の姿を教育というので、そのためにいいものをごっそり買い込んで与えることが教育ではないし、ましてやそのものについての解釈や講釈をすることが教育ではなく、その勘違いが今の教育全体のゆがみをうんでいるのだと私は思います。

教育が創造的なものでなくなっているというのはこのあたりのことです。

だからです、シュタイナーは「教育は芸術だ」と言って、創造することを教育にもう一度導入したわけです。

 

さて何かに「なった」子どもはどうなるのでしょうか。

これは次回に回します。

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