翻訳の「魂のこよみ」と「俳句」

2023年12月18日

翻訳というのは、痒いところに手が届かない、どこかもどかしいところがあるものです。二つの言葉を繋ぐ仕事ですが、二つの言葉の間には埋められない溝というのか、分厚い壁といったらいいのか、とにかく克服し難い文化の亀裂のようなものがあるのです。それを百も承知で翻訳をしたり、読んだりしているのですが、言葉を支えている文化の違いというのはやはり途轍もなく頑丈な壁のようです。翻訳機がこれからどんどん進んでゆくことが予想されますが、それで解決できないものというのはいつまでも残りそうな気がします。

 

以前に俳句が全世界で大きな注目を集めていることを報告しました。ということは英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語だけでなく、ありとあらゆる言葉で俳句が作られているということです。

俳句とはいっても十七文字、十七シルベルと、言葉の数だけを合わせるところで止まっているものからから、真に迫るものまであります。どこまで深く俳句に迫っているのかは、解釈の違いで色々と言えるものですが、多種多様な俳句が生まれているかも知れません。

外国語で作られた俳句を俳句と呼ぶかどうかという論争がある一方で、日本語で俳句を読んでもよくわからないものがあったりするわけですから、何が俳句かと定義することは難しく、逆にそこが俳句の深みにつながると考えています。

しかし俳句の精神というものは、日本文化というものを整理してみると、相当中核にあるものだということはいつも感じていることです。単に簡略化するというのではなく、非常に考え抜かれた上での簡略化と言えます。非常に高度な抽象化のプロセスです。これは日本の工芸、匠の世界を支えている精神全てに通じるものです。研ぎ澄まされた簡略化です。

俳句に込められたこの簡略化が生まれるのは、日本語が単語を基礎とする言語ではなく、句(シルベル)のところで既に意味を暗示できる強みを持つ点と、言葉のあそびが豊富で、単に意味を伝えるという以上の特技があることです。他の言語ではその文化に特有な詩的表現の世界を俳句の世界に持ってゆくのに相当の道のりがあるものと思われます。

さて、日本の俳句には相当奇抜なものがあります。二つ例を出します。

上島鬼貫(1660-1738)の     「咲くからに、見るからに、花の散るからに」

安原貞室(1609-73)の         「これはこれはとばかりの花の吉野山」

です。これなどは俳句か俳句でないのか首をかじけてしまうようなものです。こういうものはいくつもあるのです。日本語で読んでも遊び心を楽しむことはできても、そこから先は難しいものです。

それなのに、これを英語に訳そうとした人がいるのですからぶったまげます。

Blooming after at viewing after at, blossoms falling after at

という直訳と

The blossom and then we gaze, and then the bloom scatters, and then

意訳があるのですが、私の英語力では、ここで訳された英語を味わうことができません。英語が得意の人からコメントをいただきたいと思っています。私には、英語を話す人たちには、この俳句の持つ何かがたどり着いているであろうような予感がするだけです。

 

さてさて、シュタイナーの「魂のこよみ」についてお話しします。

この本はどのように読んだらいいのでしょう。私は、俳句を外国語に移すのと同じくらい手強いものではないかと思っています。ではドイツ語で読めばわかるのかというと、そんなことはなく、ドイツ語で読んでみても、謎めいていてわからないのです。単語の持っている幾つかの意味をこじつければ、なんとなくまとまった意味になるような気がするのですが、せいぜいその程度の解り方です。

魂のこよみは詩のジャンルに属していると思っています。詩というからには、意味と同じくらい言葉の遊びをふんだんに持っているもので、魂のこよみの一つ一つには遊び心がふんだんにあって、シュタイナーの言葉のセンスの確かさに驚かされます。それは別の観点からドイツ文化の真髄に直結するものなのです。詩の精神は言葉の意味をこじつけるだけのものではないはずですから、「魂のこよみ」を詩として感じ、言葉の遊び心を楽めるような日本語に訳せたら一般の読者が増えるような気がします。

ただ難しいのは、日本には直訳的な翻訳調が、未だに拡張が高いものという風潮が残っていることです。いまだ舶来に弱い面が強いのでしょうか。

 

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