ヤン・リシエツキのピアノを聞いて

2024年1月23日

今日はちょっと唐突なことを書きます。

 

人間というのは一人では生きてゆけないものだから、必然的に集団に組み込まれるようになるのではないかと思っています。そしてそこの生まれる集団は組織化されて行き社会となり、そこに惹きつけられる人にとっては非常に居心地が良い構造物になると言えます。ポジションが与えられ、役割分担がされという具合にです。

ところが人間はどこまで行っても個であるという側面も持っていて、社会に組み込まれるとそこに矛盾というのか葛藤が存在するはずなのです。社会の中で個が再び主張をするようになると、組織が乱れ始め、個がバラバラになってしまい、今度は孤独というものに巻き込まれることになります。

 

知的な人たちは、個々の現象をバラバラにしておけないので概念化という作業を行い、バラバラな個をまとめ、集め抽象化します。それによって理解しようとします。知性の得意技で、知的生活の場では抽象概念が飛び交い、概念用語で溢れるようになります。同時に個々の現象を一括りにした概念の僕のような扱いになります。本来存在価値をもつ個々の現象が蔑ろにされることになるのです。概念用語を自由に使いこなせるようになるのが知的インテリジェンスである証なのです。今日の知的社会ではこのような形がほとんど自然形です。

 

この姿って幸せな姿なのでしょうか。人間は一人一人であることを放棄したり、放棄させられたりしてきましたが、いずれにしろそこからは全体主義が生まれ、不幸への道を歩まざるを得なくなったと歴史は語ります。

理解したような顔をして概念化された知識の塊をぶつけ合いながら議論したりするのが西洋が自慢するディスカッションですが、概念化は均一ではないので分かったつもりになっている同士で議論しても結論には達することがないのです。概念というのは塊ですから結構不純物が多くしかも硬いですから融通の効かないものだからです。

 

こういった事は音楽世界でも起こっているような気がします。上達するために、あるいは演奏会のためにと猛練習をします。音楽かとして一流になるには幼い頃からの特訓が不可欠です。猛練習の末一つ一つの音がまとまってきます。発表会の当日はその成果を披露するのです。今日の音楽のあり方からするとそれ以外は考えられないかもしれません。

ところが、そのような演奏はというと、練習の成果でしかないということになってしまうのです。言い方を変えれば過去のものです。演奏からは過去の集積が聞かれるだけということになってしまいます。そんなのはつまらない演奏のはずです。練習は大事なことです。間違いなく弾けるということはそれだけで褒められて良いことなはずです。しかしもしかするともっと大事なことがあるのかもしれないのです。

演奏会当日の演奏は前日までの練習と切り離してみる必要があるのではないかと思うのです。蝶々が蛹から飛び立つようにです。練習とは違うものが演奏会では生まれて良いのです。血要集はそれを聞きたいのです。変容という言い方もされます。メタモルフォーゼとも言います。その日に生まれ変わった演奏をです。

もし演奏会が練習の成果だけのものだとすると、その演奏会はスーパーで袋入りになって売られているようなものと言えるのではないのでしょうか。演奏会当日は練習してきたものを全て忘れてその日だけの、演奏している今という貴重な瞬間を聞かせてほしいのです。勿論その演奏には昨日までの練習が煮詰まっているわけですが、変容させ、メタモルフォーゼされたものをです。あたかも当日初めて演奏するかのような気持ちで演奏されたら、聞き手にも新鮮な印象が伝えられるのではないかと思うのです。

もし演奏会での演奏が練習の積み重ねだけだったら、概念化された塊のように硬いものでしかなくなってしまうと思っています。瞬間瞬間が誕生しているような流動的なものでないと音楽の真髄に触れる事はないと思うのです。ということは練習というのはしすぎると危険だという事です。練習は必ずしも褒められたものではないということなのかもしれません。かえって演奏を硬くしてしまうものでもあると言えるのかもしれないのです。

先日ポーランド系カナダ人の28歳の若い演奏家、Jan Lisiecki、ヤン・リシエツキのピアノを聴きました。彼の演奏は驚くほど即興的といっていい自由なものでした。演奏曲目もオリジナルなものでした。前半は六人の別々な作曲家によるプレリュードだけからなるという珍しいものだったのです。高度のテクニックの持ち主ですから、猛練習しているはずです。しかし舞台で演奏している彼はその日の演奏の中に溶け込んでしまっているような印象を持ちました。前半が終わった時の感想は、十曲に及ぶバラバラな作曲家の作品なのに、まるで一つの作品を聞いたようなものだったのです。

コンクールで締め付けられているクラシック音楽の世界の中に、こんな瑞々しい人が育っていることが嬉しく、軽い足取りで帰路につきました。

コメントをどうぞ