韻文と散文

2024年1月25日

散文などと改めて言われると、なんのことかと思われるかもしれませんが、普通に使っている文章のことです。

それに引き換え韻文というのは詩を読む時に使う言葉と言って良いものです。

ただこれだけのことなのですが、この二つに見られる言葉の使い方の違いは決定的で、私はこの間でもがいています。

 

散文については今更いう事はないと思いますが、厳密に言えば、散文の中にも小説を書くときとか、研究論文を書く時とか、あるいは機械の説明書を書く時とかといくつかに分けられると思います。新聞記事の言葉、手紙の言葉も散文ですから、穂伝承のほとんどが散文だと言って良いと思います。しかし散文の中のそういった違いは、散文と韻文の違いからすれば微々たるものと言って良いので、とりあえずは散文と一括りにして間違いではないでしょう。

さて今度は韻文です。韻文の「韻」と言うのは同じ響きの音を繰り返す時「韻を踏む」という詩のテクニックからきています。その「韻を踏む」と言うのは、つまり同じ響きの言葉を重ねることからきています。

日本では、和歌や俳句は言葉の数、五・七が中心になるので、響きで調子を合わせる事はしませんから「韻を踏む」と言うテクニックは使われません。ですから韻と言うよりは「詩歌の時の言葉、詩の言葉」といった方が説明としてはわかりやすいと思いますので、これからはこの言い方にします。

 

詩の言葉の特徴は、今見た韻を踏むと言うテクニック的なことを別にすれば、基本的には、直接の意味ではなく譬えで言い表されることが多く、例えば「月が雲に隠れる」という自然現象を、読み手の心の有り様、例えば「愛する人がいなくなってしまった」、というような具合に使います。いつもワンクッションがあるので、散文のように直接言うのとは違います。散文では「ネジをあまり強く回さないように」と説明書きにあったらその通りで、それ以外の深い意味はそこにはなく、ただ「ネジを強く閉めないようにしなければならない」のです。詩の中でこのような使い方がされたら、「相手の気持ちをあまり束縛しないように」、と言ったような回り道をしなければなりません。

特に日本の和歌にはそうした使い方が主流です。自然の姿、四季の移ろいと言ったことと重ね合わせ言葉にして、その裏に別の意味を託しているのです。

なんでこんな面倒くさいことをしなければならないのかと考えるのは現代人だけで、昔のインドでは数学の論文ですらも詩で表現しなければならなかったほど、詩の言葉が支流だったのです。

それは人間が存在として自然と共に生きているからで、文章を書くときには自然と書き手とが呼応しているということが前提となっていたのです。現代人の自然観は違います。人間がそもそも機能するものとしてあるだけでなく自然もきのするものですから、極端に言うと自然保護としての自然でしかないので、そこからは詩の言葉が生まれてこないということです。自然といえば二酸化炭素という言葉が羅列されることになります。

 

俳句に「季語」というのがあります。実は俳句の生命なのです。今の人が俳句を読むときには、季語などはどうでもいいものに見えるものかもしれませんが、俳句とは四季と共に戯れる遊びなのです。俳句と言うのは、読み手の心情を、心理学的につらつらと述べるための手段ではないのです。自然の中の自分の立ち位置のを感じさせ、読み手と共感するわけです。それが読まれていないと、両輪のついたリヤカーの片方が外れてしまったようなもので片手落ちということになるのです。

 

今は物事を明確にもしかも証明しなければならないので、自然現象を喩えに使って恋を打ち明けても、待てど暮らせど返事は帰ってこないかもしれません。逆に「何が言いたいの、私のこと好きなの嫌いなの」と迫られてしまうのかオチです。

私は、時代がそうなのだから仕方がないと言って諦めたくはないのです。

現代の文章は、基本的には機械の説明書きのようになってしまったのです。どのように機能するかをしっかりと説明するために適しているのですが、言葉とはそれ以上のものだと思っています。そうなってしまったのは人間自身が機能するためだけのものになってしまったからなのではないかと思っています。

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