声の発見 その五

2013年1月21日

声が本領を発揮しているのは何時だろう、そんなことを考えていました。

いろいろな状況が思いだされるのですが、声は歌う時が一番輝いている、と言う結論です。

 

オーストラリアの原住民のアボリジニの人たちの取材をしたアメリカの女性が、彼らと何日か一緒に生活をしている中で気がついたのは、彼らがあまりお互いに喋らないということでした。そのことを聞くと、喋らなくても以心伝心でお互いのことはわかると言う返事でしたから、更に「声はどうしてあるのか」と聞くと、歌うためと、祈るためだという返事だったと報告しています。

機会あるごとにそのことをお話ししていますから、すでにご存知の方もあるとは思いましたが、とても印象に残る話しですから、ここにも書いてみました。

 

喋る声が今は普通になっています。

でも歌う時の自分を振りかえってみてください。その時には何かが違います。

歌にはメロディーがあったり、リズムがあったりしますから、それで緊張することはありますが、それ以上に歌うことは、声の作り方が違います。声と自分とが向き合います。喋るときには無い感覚です。

 

一つだけ歌うときに注意しなければならないのは、上手に歌おうという気持ちを抑えることです。歌は上手に歌われても、聞き手の心には届かないものだということは、知っておいて悪くないことです。

歌うときの自分の心に一番忠実に歌うとき、その歌は聞いている人の心を打ちます。

二回しか今までに行ったことはないですからカラオケのことを言う資格は私にはないとは思うのですが、間接的には何度か経験していますから言いますが、自己主張が強すぎます。歌は自分にもっと素直にならないと歌のよさが出てこないと思います。

 

これは何もカラオケのときの素人の歌に限らず、本職の歌い手たちにしても同じです。

偉大な歌手ほど自分を出さずに歌っていて、それが世代を超えて人々の心を打って歴史に残るのです。

歌い手になるなら頭は空っぽのほうがいいとか、歌い手は良く寝て美味しいものを食べていればいい、などという人もいますが、いささか大げさな言い方で、歌い手さんを傷つけるところもあるのですが、歌というものが持っている本質を意外と言い当てていると思っています。

歌い手さんの頭が空っぽでは困りますが、心は無心で空っぽがいいとは思います。

 

歌は別物、特別なものだということを皆さんの生活の中で気づいていただきたいと思います。

私個人としては、気分のいいとき、心が軽やかなとき、そんなときには知らないうちに鼻歌を歌っているときがあります。そんなことを思うと、いつも歌える自分であったらいいなぁと思うのですが、今の時代なんとも心を暗くすることばかりが目に付きます。報道にも責任があります。報道がそういうものばかりに集中していることです。

 

歌が神聖なものだというのはアボリジニの人たちから教えられるところですが、歌えるような自分を作る、意識するということも、心を無にするということから見て神聖な方向に向かっているのではないか、そんな気がします。

自分の心が無になっていると、そこに他の人の気持が映っているものです。他の人の気持がよくわかるのかも知れません。

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