日常生活という神秘 その五 - 人智学とは

2013年4月5日

日常生活というのは大して意味の無いこと、何時も同じことの繰り返しという意味合いが強いかもしれませんが、それは違うと思います。気の持ち様でマンネリになってしまうことはあるでしょうが、ただ同じことが繰り返されるのが日常生活ではないはずです。つまらないことに見えるだけで意味のない、つまらないことではないのです

日常生活が退屈になってしまうもしれないというところをどの様にクリアーできるのか、そこに男性と女性の違いがあります。

ただ現代は男性の中に女性性を沢山持っている人がいて、反対に女性の中に男性的な人がいるので、旧来の様に男か女かというわけ方は難しくなっています。とはいえ女性性が無いとクリアーできないものです。女性性がなせる技なのです。

日常生活には「退屈な」という形容詞がぴったりのものが確かに含まれています。しかしそれが退屈なもので終ってしまうか、そこに何か面白味の様なものを見つけられるかは、男女の違いに加えて個人差があります。

 

芸術という行為は創造的なとか、天才性という様なもので飾られて持ち挙げられるものですが、日常性、日常生活に似ているところが沢山あります。

芸術は才能が必要で、高尚なもので、それに引き換え日常生活の様な単純な誰でもできるもので、それを同じに並べるのは芸術への冒涜だ、そんなバカな、と言われるかもしれませんが、本質は良く似ています。

日常生活を生きものにするにはある種の発火点、インスピレーションが必要です。そうしないと惰性の渦に巻かれてしまいます。そして同じものの繰り返しという落とし穴に落ちてしまいます。精神的にも参ってしまうはずです。芸術家たちもいつもの繰り返しが大事ですが、その中から新しい息吹を感じなければ先に進むことができません。油断すると、気を抜くと、日常生活と同じ様にマンネリズムが待ち構えています。

 

シュタイナーが芸術的なものを教育の中に取り入れていますが、同じ様に日常生活も取り入れていると考えてもいいのではないかと思います。

シュタイナーは教育を芸術に高めた人です。同じ様に日常生活の中の要素を教育の中に取り入れた人です。ここはこれからもっと真剣に考えられなければならないところです。シュタイナーの人智学そのものが日常生活への意識の変革を望んでいるのと同じことです。

 

特殊なもの、特別なものにはすぐ目が行きます。目立つからです。刺激的とも言えます。ヨーロッパでは今音楽は音楽会が主体です。昔はホームコンサートというものが文化としての音楽を支えていたのでしょうが、今は音楽祭というイヴェントが主体です。

若い音楽家たちはそこに選ばれて晴れ晴れしい舞台を体験したいので、有名なコンクールに出ていい成績を収めて、名前を早くから売り出しにかかっています。これが音楽の本質だとは思えないのは私だけでしょうか。一体今日音楽はどこにあるのでしょう、と真剣に問いかけています。

芸術はどんどん特殊なものになってきています。イヴェント業です。そしてそこには何億という莫大なお金を出すスポンサーがつきます。音楽は今商業のための大切な商品になってしまいました。

One Response to “日常生活という神秘 その五 - 人智学とは”

  1. 音夢 より:

    仲先生、ご無沙汰しております。
    一年ほどまえに本をだしました。
    もし、よろしければ、ご実家のほうに送らせていただきたく存じます。

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