思春期 その余白 (前向きに生きる)

2013年6月26日

 「未来に向かって前向きに生きましょう」と言う時、「まえ」は何処にあるのかと言えば、前方、つまり顔の向いている方に決まっています。未来は私たちの前に広がっているものです。ところがです、時間のことを言う時「まえ」は「前の日(まえのひ)」、「何日か前」、「前に言ったとおりに」と言う様に、過去です。過去は、後ろ髪が引かれる、昔を振り返るとと言うように後ろに向かっています。

「何日か前に」と話している時、気持ちは後ろの方を、消えて行く時間の方を向いていて、「前向きに生きてください」という時には正反対です。

「何日か前に考えたことですが、人間やはり前向きに生きなければ」というのはめまぐるしく前と後ろが入れ換わります。「まえ」は前なのでしょうか後ろなのでしょうか。

もう一つ不思議が「まえ」にはあります。上であり下でありという「まえ」です。

「おまえ」と言うのは現代の日本語では目下の人に向かって言う時か、喧嘩を売る時くらいしか聞きません。しかしこの言葉は、昔は尊敬語で、御前は「おんまえ」「ごぜん」ということで、「私どもの前に居られるお方」「あなた様」くらいの迫力で、相手を見上げていたのです。ということは時代の流れの中で逆転劇が起こったと言うことです。「おまえ」が示す方向は上向きから下向きにと変わってしまったのです。一体何が起こったのか興味深いところです。そして何時頃その交代が起こったのかもです。

「手前」という言い方がありますが、自分のことをへりくだって指すのは昔も今も同じ様です。自分はいつも下向きというのは日本文化の特徴です。この部分は日本人の中で定着しているのか、深いところにあるものなのか、変化が見られない様です。

「いつも降りる一つ前の駅で降りてください」は、駅は空間的な位置関係の中にありますが、電車が順番に止まって行くと言う時間の流れの中で捉えられますから「まえ」は・・・。日本人なら間違えることなく言われた通りの駅で降りるでしょう。

「ことが起こる前に言って置きますが」、の「まえ」も時間的な前です。日本人なら間違わないで使えます。

前向きと前の日の「まえ」が同じ言葉で全く違う方向を指しているというのは日本語を外国語として学んでいる人たちには気の毒なことです。たぶん混乱しているのではないかと想像します。幸いなことに「前に向かって歩いて行ってください」と言って後ろに歩きだした外人さんにはまだお目に掛っていません。とすると外国の人も案外解っていることなのでしょうか。

 

思春期は大揺れです。天国から地獄まで、登っては下降します。過去も未来も、まえと後ろということです、右も左も、正しい正しくないと言うことです、それ等すべての方向が混ざっている「まえ」を思春期にはやっているのでしょう。

何処も「まえ」ですから混沌としています。自分が向いているところが「まえ」なのです。勝手なものです。外から見れば何をやっているのか、何処を向いているのか解らないのに、本人は滑稽なくらい大真面目に「まえ」を向いています。麻薬などにはまり込んでしまったら危なくて、親としては目も当てられないところです。

熱血漢で、一本気なのも思春期の特徴で、しかも人生に不慣れなので融通が利かないところがありと、思いだすのも嫌だと言うほど大変な思春期を過ごした人を多く知っています。

 

思春期は主観と客観とが交錯します。思春期以前は主観だけと言っていいほどです。幼い心には客観的なんてことは想像もつかないのです。思春期の特徴は客観的なことと言うのがあるらしいと気が付くことです。そして主観と客観とが思春期の心の中で葛藤して、最初は客観が勝ちます。その方がカッコよく「客観的に見れば」なんて言葉にするのは大人びた感じがするものです。しかしそのうち主観が敗者復活してきます。しかし一度負けた主観は前の主観、単なる我儘とは違って、新しい主観は客観以上に大人びた雰囲気をたたえています。そして客観という一般論を乗り越えて個人として生きて行くと言う誇りにうら打ちされた堂々とした主観が生まれるのです。

 

思春期は結構きっぱりと始まります。ところがありがたいことにいつか終ります。これも不思議です。一生思春期の様な人もいないではないですが、相当しんどい生き方に違いありません。

思春期には終わりがある。次はこのことを考えてみたいと思います。

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