Ätherleib エーテル体、記憶と命

2013年7月3日

エーテル体の仕事の一つは記憶です。

記憶は単に知的な作業ではなくて、立派な生命活動だと言うことです。

 

記憶があるので、見たり、聞いたり、食べたりしたものがまた別のときに思いだされます。

去年の夏にハワイに行ったとします。今思いだしている去年の夏の楽しいことは、とっくに過ぎ去った過去のことです。

でも去年のカレンダーの様に屑かごに捨てられて無くなってしまったのではなく、今も思いだそうとすれば取り出してこられます。思い出です。その出来事は、思いだせるのです。電話で友人と話しをしていて、突然その時の話しになると、今まで忘れていた細かいところまでありありと思いだされたりします。そして楽しかった、と感じるのです。思い出すと言うのは嬉しいことなのです。

思い出話は、思いだしたくない様なことを思い出す時は別ですが、たいていは嬉しい体験なのです。

しかも辛いことも「時が笑い話にしてくれる」と言うのは、さだまさしさんの歌「コスモス」の名セリフです。

思い出すことができるって素晴らしいことです。

 

ところが「ずっと覚えている」と言うのは状況が全く違います。「ずっと忘れられない」となると病気になってしまいます。何故でしょうか。

忘れたら、ガス風船が手を離せば飛んでゆく様に、過去のものになります。ところが忘れられないと言うのはずっとそのことを引きずっているので、今でもその体験が感覚的に目の前にある様なもので、肉体労働になってしまい、体に負担がかかり、体が重くなり、病気になってしまうのです。「別かれた彼女のこと」、「死んだ飼い犬のこと」、「株で失った500万円」などは、ずっと覚えているのでその時のことがまだ現在をさまよっていて、過去を今の様に引きずっているため、思いだすと言うことにはならないのです。

 

エーテル体は「つなぐもの」です。つないでいる時元気なので、過去と今とをつなぐと元気なのです。思いだしているとき、エーテル体の中で、今と去年の夏のことをつなぎます。これが元気の源です。

 

そのためには忘れると言うことが大切です。しかし忘れるは誤解されていて、覚えていないと同じに扱われることがほとんどですから、ここでは忘れることの本当の意味を確認しようと思います。

覚えていないと言うのは印象が薄かったと言うことです。興味や関心が無いことはすぐに忘れます。

待ってください、これは忘れるではないのです。厳密に言うと、そのことを覚えていないのです。印象が薄かったからすぐに消えてしまったのです。消えてしまったので、それを過去に送りだす時にはもうあとかたもなくなっていて、思い出としてとどまっていないので、思い出すことができないのです。これを忘れたと誤魔化しているだけで、本当は関心が無かったから気に留めなかったと言うべきことです。

 

忘れると言うのは難しい、特殊技術が必要なもので、エーテル体だけの話しでは済まない複雑なものです。

忘れなければエーテル体にしても、今と過去とをつなげないのです。つなぐのはエーテル体の仕事ですが、忘れると言うのは別の力が働いている様な気がします。

それは無意識に働いている「離す」、「放す」です。今持っているものを手放すのはなかなかできないものです。そこに愛着があればある程手放せないものです。

まるで命綱の様にしっかりとしがみついていると「忘れる」ことはできません。「忘れる」には命を放り出す様な勇気が必要です。勿論無意識の世界の話しですが、勇気が無いと放せないと言うことは理解できると思います。

勇気を何処で作るかと言うことになります。勇気は生きていることへの信頼から生まれます。信頼感情というものが大基本です。勇気ある人は何かを信じています。

忘れたら大変だと言う、ある種の恐怖感はこの信頼感情とは正反対のもので、これでは忘れることはできません。忘れることができないと言うのは、信頼が不足しているのです。信頼が無いと言うのは別の言い方をすると、手放せないので、ケチということです。

 

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