文化の軸について

2013年7月7日

今日は七夕です。二つの星が一年に一度会う日です。

二つの文化が出会うと言うことを考えてみようと思います。

 

先日日本の庭のことをドイツの雑誌に書いて、それをきっかけに他の民族の庭づくりを調べてみましたが、そこで出会った庭は、人間の憩うための場所、空間くらいにしか感じられませんでした。

その事実を通して、日本の庭がいかに特殊なものかと言うことを再認識したのですが、素晴らしいだけでなく、もしかしたら世界にただ一つのものではないか、と言う気がしてきたのです。

庭が精神を語るのです。「庭格」とでも言ったらいいのでしょうか、そんなものすら感じます。こんなことが日本の庭では起こってしまったのです。

 

庭づくりが飛鳥時代、あるいはそれ以前に中国から来た時には、庭は特別な空間ではあったのでしょうが、哲学も思想もなかった様です。荘園時代は貴族の贅沢のためのものだった様な気さえします。日本がそこに哲学、思想を盛り込んだと言う風に解釈していいと思います。禅が一役買ったことは言うまでもないことです。

日本に渡来してから、庭は人格と言っていいものを持ち始めました。「庭格」と言う言葉は無いので、ここではあえて使わない様にしますが、深みを備えて発展して行きました。

弓道の世界でもよく似ていることが起こりました。中国では弓道まで深まらずに、せいぜい弓遊び程度のものでしかなかったものが、日本に来て、日本化する中で、弓道と言う精神世界を代弁するようなものになって行きます。弓を射ると言うただの遊びが、精神世界を代弁すると言う、前代未聞のことが日本の中で起こってしまったのです。

ここに日本の文化の特徴を見ることができます。文化には度の文化にも軸があり、日本文化の軸が外から取り入れたものを消化していったのです。日本文化の「軸」に当たるところに不思議な能力があると考えてみたいです。

文化には必ず軸があり、確実に存在しているのに、必ずしも意識されないものです。人間の場合も同じだと思います。人格とか、その人の軸に当たるものは意識されないで私たちは生きています。そんなものを意識している人は、人格者ではありません。回っている独楽の軸は静かです。しっかりと中心を持てば持つほど静かです。それとよく似ているとおもいます。

 

音楽ではどう言うことが起こったのでしょうか。

私たちがクラシック音楽と呼んでいるものは、西洋で生まれ、育ちました。そこには精神が盛り込まれ、精神化した音楽が日本に伝わって来ました。もう100年以上が経ちます。

その音楽では、庭や弓道の様なことが起きなかったのです。いや、そういうのは早すぎるかもしれません。まだたかだか100年程の歴史しかないのですから。いつかは日本化した、日本文化の軸が音楽を消化する時が来るかもしれません。

 

しかし音楽の場合は弓、庭と違って、すでに精神化し、文化の軸と言う程の資質を持っているものが日本に伝わってきたので事情が異なります。

ある文化の精神的な内容を、別の文化の中で精神化すると言うのは容易なことではないのでしょう。

 西洋音楽は独自の西洋文化の軸を支える大きな力です。哲学も文学もその他のさまざまな文化はその軸から生まれたと言っていいと思います。

日本に西洋音楽が伝えられたと言うのは、西洋の精神の軸が伝えられたと言うことです。とりあえずはその軸をお借りして一緒に回ってみましょうと言うのがこの100年の出来事だった様です。

 

さてこれから西洋の軸は日本文化の中でどの様な形で生き続けるのでしょうか。西洋の軸と日本の軸とが二つ共存しているのが今現在です。二つの軸が一つになる様なことが起こるのでしょうか。一体どう言う道があるのでしょうか。これから真剣に考えて行かなければならないことだと思います。

大切なことは二つが一つになる時です。どちらかが片方を吸収するものであってはならないのです。二つが一つになる時、そこで新次元の出来事になっていなければならないと言うことです。

両方ともが成長したと言う実感が大切なことです。

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