シャリアピンのドンキホーテ、声は人間を超えているものです

2013年7月8日

ロシアの歌い手で、「声の神様」とまで言われたバスのシャリアピンが演じるドンキホーテ。今日はこの話しです。

この映画(1933年制作)を始めて見たのは二十年ほど遡ります。シュトゥトガルトのプラネタリウムの一室を借りて設置された臨時映画室で「今世紀の偉大な歌い手たち」が二週間にわたって上映された時のことでした。二十本の映画が広告されていました。時間の許す限り、と言うより時間を割いても映画室に足を運びました。どの映画も一度だけの上映でしたから全部を見ることはできませんでしたが、半分以上は見たと記憶しています。そこでそれまで知らなかった歌い手たちの様子を映像で見ることができました。その中にシャリアピン主演のドンキホーテが入っていたのです。

バスのシャリアピンは、「声の神様」と言われた人です。しかも彼が演じるのは私の大好きなドンキホーテです。映画館に向かう途中ずっと「とんなものなのだろう」と考えていました。

 

シェークスピアの翻訳家でもあり演出家でもある福田恒存さんの本の中にとてもユニークなシャリアピンが描かれていました。福田さんはオペラが好きではないようでした。その理由はオペラの歌い手たちは、役者としては大根も大根、極めつけの大根だからだと言うのです。だからオペラに行くことはしなくなってしまったと仰っていました。なんとなくわかる様な気がします。歌もしらじらしいと言うのです。人によるとおもいますが・・。

その福田さんが来日したシャリアピンの歌声を聞いた時、オペラの意味を始めて理解したと仰るのです。声が役を演じるのだと解ったらしいのです。芝居は所作が命ですが、オペラは歌というか声が命だと言うことを理解したと仰るのです。シャリアピンの声の中にオペラの場面がありありと浮かんできたと言うことです。

 

ドンキホーテは、私にはシャリアピン以外は考えられないほど、シャリアピンの声とドンキホーテはマッチしています。実際に適役でした。ドンキホーテという、架空の人物から生まれる奇想天外な話しは普通では絶対に考えられないことです。この人物は徹頭徹尾現実離れしていますから、現実生活の臭いが微塵もなく、本を読み過ぎた、しかも騎士道の話ばかりを読んで頭がおかしくなったという設定ですから、突飛押しもないことばかりが頭の中をめぐっています。大ボラ、ウソと人騒がせな誇大妄想ばかりの連続です。この人類の歴史上一人しかいない様な非現実的な人物を演劇的に「演じること」は不可能です。演劇としてセリフで喋らせれば、説明に傾きすぎてドンキホーテと言う奇想天外な人物像は見えてこないでしょう。役者がどんなに優れていても、またセリフが、シナリオがどんなに優れたものでも、駄目だと思います。

映画監督のパープストはこのドンキホーテの映画化に際し、歌と音楽で綴ることを思いつくのです。人間であることを超えるためには、歌以外には無いでしょう。歌うシャリアピンのドンキホーテをセルバンテスが見たらきっと満足したに違いありません。

 

シャリアピンの声の特異性です。彼の声は存在の声です。人間存在が声になった声です。いい声、美声とかいう範疇のものではなく、もしかすると歌声と言う様な代物でもなく、人間存在を取り巻いているおどろおどろしいものが声になっていると思わざるを得ない様な瞬間もある様な代物です。シャリアピンを通して「声の神様」が降りてきている。人間業ではない。こう言った印象が「声の神様」と彼のことを言わせしむのでしょうが、現実離れしていると同時に神々しいものです。この存在の声がドンキホーテになったのです。

 

予約制をとらないで当日券だけでしたから、高なる予感と期待とで映画館の長い列に並んで、チケットが手に入りますようにと祈っていたことを思いだします。ドンキホーテと言う人物、シャリアピンの声、映画を見た後の満された気持ちは今もありありと蘇って来ます。ただ今日書いた様に、シャリアピンの存在の声とドンキホーテの存在がとても近いところにあるものだとはっきりと理解できたのは、ずっとその後のことです。

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