続・思春期 その一、自意識の誕生

2013年7月13日

思春期のことでもう少し書き足しておきたいものがある様な気がして再びこの問題を扱います。付き合ってください。

 

自分は簡単な問題ではないんです。ないどころかこれ抜きには人間が始まらないのです。

人間と他の生物との違いは、人間はとりあえずは人間として生まれるのですが、それだけではまだ充分人間とは言えなくて、人間は生きながらにして一度死んで、そして生まれ変わったことで、自分が人間であることに気が付き、とりあえずの人間からちゃんとした人間になるところにあります。

この生まれ変われの劇は動物には見られないことで、犬は生まれながらにしてもうちゃんとした犬なのです。言い方を変えれば、犬はとりあえず犬として生まれ死ぬまでとりあえず犬のままということです。動物の成長はそのとりあえずの姿が大きくなって行くだけなのです。

植物はここのところが動物同じです。バラがきれいに咲いているのを見て私たちはその美しさに心打たれます。彼らは自分でバラとして綺麗に咲いているなどと考えることなく咲いています。それで見る人をよろこばせているのです。喜ばせようとして咲いたらあれほど綺麗に咲かないかもしれません。バラは始めからバラとしての能力を持って生まれてきています。バラは始めっから完璧なバラなのです。あるいは、バラはいわゆるバラで、そしていわゆるバラのまま植物としての寿命を閉じると言ってもいいのです。

 

人間だけは違います。自分と言う人間がここに居る、このことに人間は自分で気が付くのです。この気付きがあった時からちゃんとした人間になるのです。この気付きのことを自意識の目覚めといいます。自意識のない人間は、とりあえず人間と言うことです。たとえ成人した人間でもです。

ただ自意識には幾つもの層があるので、自意識と言っているだけではすまされないので話しが難しくなってしまいます。自意識の質、深さがしっかりと把握されていないと、自意識とは言っても中身のない話しをしているにすぎなくなってしまいます。

 

表面的な、とりあえずの自意識は思春期の時に人間に自然に訪れます。思春期という成長の流れにみんな一度は乗りますから、そこで自分に気付くということをとりあえずは形として行います。

思春期は反抗期とも言われる様に、周りのものに反発します。周囲に反発することで自分を主張することが自意識の一般的な的な姿です。これは皆通る道です。

ここで終ってしまう人が意外と多いのですが、ここまででは一般的な徒いうか、中身のない思春期ですから人間としてはまだ半人前です。この状態のまま大人になった人は自分の都合だけで世の中を生きて行く人になってしまいます。自分の都合しか見えないですから、困ったものなのです。自分かって人で、自分の都合を軸に周りと駆け引きばかりして世の中を生きてゆく人です。本当に困ったものです。なりは大人でも心は子どものままです。生来のエゴイストですから、自分がエゴイストであることには全く気が付いていないので、そのまま一生を終えることになります。自意識とは言っても、エゴ意識、自分勝手に生きる人間の姿しかないので、思春期的な、おざなりのごく表面的な自意識しかその人にはなく、その人は一生子どもが大人になった様な状態で生き続けることになります。困ったものです。

 

成長の流れとしての思春期をもう一つ深いところまで持って行くことで始めて思春期が全うされるのです。そのためには反抗期と言う思春期ではないものがなくてはならないのです。反抗している思春期と言うのは、周囲から見て解りやすいものですから、「あの思春期の真っ盛りだ」と一目瞭然なのですが、深まって行くと単に表面的に周囲に反抗しているだけでないので、周りからは見えなくなってしまいます。

 

 

自意識と言うのは外から来るものに反抗することから作られ始まるのですが、何もない時に、自分の中から「私が、自分が生きているんだ」と解ることで深まりを作ります。

 

自意識、つまり自分がここに居るというということが解るのは、五感ではなく、フィーリングとも違う意識の中から生まれて来るものです。

 

自意識は簡単に目覚めるものではなく、自分の存在が危ぶまれる様な状態にならないと生まれません。それは「死」のイメージです。死があるから生きていることが意識されるのです。思春期のころというのは自殺、自殺未遂が多いことを指摘したいと思います。

実は、成長の中で死のイメージは思春期の少し前に私たちの中に現れて来ていたのです。「自分が死ぬ」「自分もいつか死ぬ」「大好きなお母さんがいつか死ぬ」という形で、自分を取り巻くものが死んで無くなるというイメージです。

私は個人的にはっきりと思い出すことはできないのですが、もともと心臓の悪い体質でしたから、駆けっこをしてゴールしたところで急に心臓が苦しくなり、目の前が真っ暗になってうずくまりそのまま意識が無くなり目が覚めたら保健室のベットの中ということがありました。その時「死ぬかも知れない」とかすかに感じたことは覚えていますが、しをイメージしたかと聞かれたら、ノーと答えるでしよう。経験談として聞かされる「ある日突然に死のイメージが心の中に湧きでて来る」と言う体験ではありませんでした。

「死」をイメージするとは言っても、簡単にできることではありません。

思春期には突然心の中に暗いものとして「死」が湧いてくるのです。悲観的な雰囲気の中に居るのです。「生きて行くことの意味が解らない」、「生きていても意味がない」と言う形で出来る人もいます。あるいは「自分なんてどうせ大した人間ではない」と言う場合もあります。とてもペシミスティックなものです。

自意識は「自己否定」から生まれます。これは大切なところです。

自己否定の変形は「シャイ」「恥ずかしがり屋」で、「自分なんかどうでもいい」、「どうせ人は自分のことをどうも思っていない」という様な投げやりなものを持っているものです。

シャイ、恥ずかしがり屋と言うのは自己意識の入り口にいつづけるということです。生涯この状態に居続ける人もいます。入口からもう一つ先に行かないと自意識の中身が見えて来ません。入口からもう一歩先に行くには自己肯定と言う後押しがなければできないのです。

続・思春期 その一、自意識の誕生

 

思春期のことでもう少し書き足しておきたいものがある様な気がして再びこの問題を扱います。付き合ってください。

 

自分は簡単な問題ではないんです。ないどころかこれ抜きには人間が始まらないのです。

人間と他の生物との違いは、人間はとりあえずは人間として生まれるのですが、それだけではまだ充分人間とは言えなくて、人間は生きながらにして一度死んで、そして生まれ変わったことで、自分が人間であることに気が付き、とりあえずの人間からちゃんとした人間になるところにあります。

この生まれ変われの劇は動物には見られないことで、犬は生まれながらにしてもうちゃんとした犬なのです。言い方を変えれば、犬はとりあえず犬として生まれ死ぬまでとりあえず犬のままということです。動物の成長はそのとりあえずの姿が大きくなって行くだけなのです。

植物はここのところが動物同じです。バラがきれいに咲いているのを見て私たちはその美しさに心打たれます。彼らは自分でバラとして綺麗に咲いているなどと考えることなく咲いています。それで見る人をよろこばせているのです。喜ばせようとして咲いたらあれほど綺麗に咲かないかもしれません。バラは始めからバラとしての能力を持って生まれてきています。バラは始めっから完璧なバラなのです。あるいは、バラはいわゆるバラで、そしていわゆるバラのまま植物としての寿命を閉じると言ってもいいのです。

 

人間だけは違います。自分と言う人間がここに居る、このことに人間は自分で気が付くのです。この気付きがあった時からちゃんとした人間になるのです。この気付きのことを自意識の目覚めといいます。自意識のない人間は、とりあえず人間と言うことです。たとえ成人した人間でもです。

ただ自意識には幾つもの層があるので、自意識と言っているだけではすまされないので話しが難しくなってしまいます。自意識の質、深さがしっかりと把握されていないと、自意識とは言っても中身のない話しをしているにすぎなくなってしまいます。

 

表面的な、とりあえずの自意識は思春期の時に人間に自然に訪れます。思春期という成長の流れにみんな一度は乗りますから、そこで自分に気付くということをとりあえずは形として行います。

思春期は反抗期とも言われる様に、周りのものに反発します。周囲に反発することで自分を主張することが自意識の一般的な的な姿です。これは皆通る道です。

ここで終ってしまう人が意外と多いのですが、ここまででは一般的な徒いうか、中身のない思春期ですから人間としてはまだ半人前です。この状態のまま大人になった人は自分の都合だけで世の中を生きて行く人になってしまいます。自分の都合しか見えないですから、困ったものなのです。自分かって人で、自分の都合を軸に周りと駆け引きばかりして世の中を生きてゆく人です。本当に困ったものです。なりは大人でも心は子どものままです。生来のエゴイストですから、自分がエゴイストであることには全く気が付いていないので、そのまま一生を終えることになります。自意識とは言っても、エゴ意識、自分勝手に生きる人間の姿しかないので、思春期的な、おざなりのごく表面的な自意識しかその人にはなく、その人は一生子どもが大人になった様な状態で生き続けることになります。困ったものです。

 

成長の流れとしての思春期をもう一つ深いところまで持って行くことで始めて思春期が全うされるのです。そのためには反抗期と言う思春期ではないものがなくてはならないのです。反抗している思春期と言うのは、周囲から見て解りやすいものですから、「あの思春期の真っ盛りだ」と一目瞭然なのですが、深まって行くと単に表面的に周囲に反抗しているだけでないので、周りからは見えなくなってしまいます。

 

 

自意識と言うのは外から来るものに反抗することから作られ始まるのですが、何もない時に、自分の中から「私が、自分が生きているんだ」と解ることで深まりを作ります。

 

自意識、つまり自分がここに居るというということが解るのは、五感ではなく、フィーリングとも違う意識の中から生まれて来るものです。

 

自意識は簡単に目覚めるものではなく、自分の存在が危ぶまれる様な状態にならないと生まれません。それは「死」のイメージです。死があるから生きていることが意識されるのです。思春期のころというのは自殺、自殺未遂が多いことを指摘したいと思います。

実は、成長の中で死のイメージは思春期の少し前に私たちの中に現れて来ていたのです。「自分が死ぬ」「自分もいつか死ぬ」「大好きなお母さんがいつか死ぬ」という形で、自分を取り巻くものが死んで無くなるというイメージです。

私は個人的にはっきりと思い出すことはできないのですが、もともと心臓の悪い体質でしたから、駆けっこをしてゴールしたところで急に心臓が苦しくなり、目の前が真っ暗になってうずくまりそのまま意識が無くなり目が覚めたら保健室のベットの中ということがありました。その時「死ぬかも知れない」とかすかに感じたことは覚えていますが、しをイメージしたかと聞かれたら、ノーと答えるでしよう。経験談として聞かされる「ある日突然に死のイメージが心の中に湧きでて来る」と言う体験ではありませんでした。

「死」をイメージするとは言っても、簡単にできることではありません。

思春期には突然心の中に暗いものとして「死」が湧いてくるのです。悲観的な雰囲気の中に居るのです。「生きて行くことの意味が解らない」、「生きていても意味がない」と言う形で出来る人もいます。あるいは「自分なんてどうせ大した人間ではない」と言う場合もあります。とてもペシミスティックなものです。

自意識は「自己否定」から生まれます。これは大切なところです。

自己否定の変形は「シャイ」「恥ずかしがり屋」で、「自分なんかどうでもいい」、「どうせ人は自分のことをどうも思っていない」という様な投げやりなものを持っているものです。

シャイ、恥ずかしがり屋と言うのは自己意識の入り口にいつづけるということです。生涯この状態に居続ける人もいます。入口からもう一つ先に行かないと自意識の中身が見えて来ません。入口からもう一歩先に行くには自己肯定と言う後押しがなければできないのです。

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