自我と無 

2011年12月16日

どうしても書いておかなければならないことを探して見た。

やはり自我のことだ。

自分のことではなく、自我のこと。

自我という崇高なものだ。

 

自分というのは自我の一部とみなしてもいい。

だから、解りやすく言うには、自分をどんどん深めて行ってください、ということにしている。

そして行きつくのが自我の領域です。

 

自我のことを言っておかないとと思うのは、自我が人間にとって、始めで終わりだからだ。

自我という言葉に躓いている人もいると思う。

西洋から出てきている言葉だから、西洋的な考え方で整理されている。

西洋的とはいっても世界を包括しているわけではないから、補う意味で東洋的な自我?のことも行っておかなければならないと思う。

ただ東洋には自我の様に、自分を出発点とする考え方はないから、自我という言葉はどう見ても東洋的ではない。

 

東洋にもものの始めと終わりがある、それが無だ。

東洋は西洋の自我を理解しようとした。

哲学という世界でだ。

 

西洋は東洋の無を理解しようとし始めている。

そういっていいと思う。

まだ始まったばかりだが・・

私個人としては、無が西洋に理解される時、西洋が変わると思っている。

西洋の気付いた歴史の延長に、無はない。

今の西洋のままでは、無は説明できても理解できるものではない様な気がする。

西洋特有の説明、これが西洋的な力だが、それと無は無縁の様な気がする。

無の理解は、説明で理解できると信じているものが、勇気を持って匙を投げたとこから始まるからだ。

 

自我は自分が理解するという延長にあるが、無は自分で理解することは全く眼中にない。

無は存在していることを証明するのでも、説明するのでもなく、直観する。

向こう任せにだ。

東洋はそうして自分を超えてきた。

私にはその様に見える。

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