へび年の終りに添えて

2013年12月15日

今が新しい始まりの時かもしれないと思う瞬間があります。皆さんも経験したことがあるのではないかと思います。

それまで続いた状態から抜け出せずに悶々としている時に、何かがきっかけになって、外からでも内側からでもいいのですが、一皮むけた様な感じがするという瞬間です。

それは脱皮、蛇と同じことをやっているのでしょう。

 

2013年、平成25年はへび年でした。

私たち人間とへびの違いは皮を作っている質が違うということです。蛇は皮は肉体的なものですが、人間の皮は目に見えない、いつの間にかできてしまった思い込みです。

思い込みと言うのはどうしようもないほど私たちを固めてしまいます。しかしです、かためると同時に私たちに安定をもたらしますから、必要なものです。イデオロギーと言われているものはその思い込みであることがとても多いものです。私はその中ら宗教と言うものを含めて考えています。

ただお断りしておかなければならないのは、人間の中にある宗教心と宗教と言う形式は別物だということです。

 

自分の思い込みはいつか捨てなければならないものです。こう言うスタンスでいれば思い込みは健全なものですが、知らず知らずのうちに固めるだけ固められてしまって、実はそこから脱皮できなくなっていることがほとんどです。

そう言われれば思い当たる節があるなぁー、と言える方は健全ですが、自分の思い込みに気付くには相当の精神的な訓練が必要ですから、たいていの場合、思い込みが自分の本当の姿だと思ってしまっています。この訓練は知的な訓練では得られないものです。学校の知識を詰め込むお勉強、試験の点数などと言うのは脱皮するためにはほとんど無力なものだと思います。なぜかって? 知的なものはただ整理するだけだからです。自分を整理することで脱皮はできません。脱皮に必要なのは勇気です。それはいわゆるお勉強のできる優秀な人ほど脱皮が難しい、自分を変えることが難しいということからも解っていただけると思います。プライドと言うのは、もしかすると思い込みの英語訳かもしれません。

思い込みは自分の仮の姿です。「仮の」と言い捨てるのは酷な気がしますが、本当の自分と言う言い方を出してくるとやはり仮のと言うことになってしまいます。仮の自分ですから、古くなるとそれを捨てなければならないものだということです。

 

さて自分の本当の姿です。

何のことを言っているのでしょう。曲者は「本当の」と言う形容詞です。ここで何故本当のなど言うかと言うと、それはひとえに「仮の」という言い方をしたために他なりません。

実は本当なんで紛らわしい言葉は使いたくないのですが、ここではしょうがないと思っています。

さて本当の自分ですが・・

自画自賛と自己卑下の間と言ってみたい気がします。そこにひっそりと存在しているもの、しかし凛としてあるものなものではないかと思っています。

 

 

 

 

 

 

 

One Response to “へび年の終りに添えて”

  1. 近藤幸子 埼玉県越谷市 より:

    ご無沙汰しております。

    自画自賛。自己卑下。
    勝手な思い込みから。

    自己肯定感と自己効力感、そして自己否定。
    毎日の希望と反省の基に、明日の自分が作られていく。
    どこへ向かって行くのか楽しくなったり、不安になったり。

    すごく、お会いして話したいと思っています。

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