新年明けましておけでとうございます

2014年1月5日

今年もどうぞよろしくお願いいたします。

ドイツの冬の朝、東の空が真っ赤に染まることがあります。赤と言う色は本来なら、温かさ、ぬくもりと言った熱を感じるのですが、その深紅の赤の中に引き締まる寒さを感じるのはとても不思議です。

 

一月の別の呼び方は睦月、英語ではJanuaryです。この語源はローマの神様ヤーヌスの神様から来ています。

この神様は二つの顔で前と後ろを同時に見ています。一年の初めの月がこの神様にちなんで名づけられているのは、一月にはこれから始まる未来と過ぎ取った去年一年の両方を見ると言うことがあります。昨年を振り返りながら、今年一年の計を立てるからです。

一月に限らず、人生は至る所で前向きと後ろ向きが同居しています。温故知新と言うのも同じ系列に入ります。

さて未来ですが、未来というのはとにかく解らないものです。ついやってしまう間違いは過去の延長上に未来を置いてしまうことでしょう。未来は向こうからやってくるものだからです。過去の物差しでは未来は計れないものです。過去が未来に役立つのは、そうして突然やってくる未来を過去の経験が受け皿となってくれる時だけです。過去が未来を受け入れる勇気になってくれる時だけです。

 

前と後ろばかりでなく、人生には右と左を同時に見ていることもよくあります。アムビヴァレント、二つの方向に同時に導かれるということです。悪く言うと、曖昧でどっちつかず、よく言えば、ゲーテに習って「人生は迷い続けるもの」と言うことになります。ゲーテはファウストの中でこんな風に呟きます。人生の終焉に当たって、思わず出てしまったゲーテの本音だったのかもしれません。

 

二つの間と言うのを考えるのです。たとえば生と死の間と言うこともあると思います。医療は今、死にそうな患者さんを一秒でも長く生かすことが勝利の様に考えています。これは違うと思います。死を受け入れられない恐怖からもがいている様な気がするのですが、私の思い込みでしょうか。これから死後と言うのがもう少し解って来れば、状況は随分変わると思います。人間の誕生と死は私たちの日常の意思からだけでは説明できないものだということに気がつくことがこれからの私たちの課題なのです。

善と悪と言うことも同じ様なものです。

未来と過去、善と悪、生と死。対立している様に見えます。確かに対立していると言えるのですが、調和と言うことを考えてもいいと思います。調和と言う観点からすると、その間に何かがあって、二つを調和させるのだといえそうです。

「間」と言うものが登場します。間は魔に通じるものだと聞いたことがありますが、そんなにびくびくする必要はないと思います。間は二つの対立するものの間に存在する神聖なものです、それによって二つは天秤に掛けられた様になります。

二つの間の「間」がしっかりしていることが大切なのですが、しっかりとは言っても、しっかりと言うのはどう言うことを言うのでしょうか。

出しゃばって、二つの間の調停を計ろうなんて言うのは褒められたものではないはずです。政治的な外交の手段としては、活用されているのでしょうが、政治的調停は力関係の調停の時には言えても、ここで私たちが考えている「間」とは少し違います。

二つはもともと一つのものなのです。一つからある必然的なプロセスで二つになって現在二つに分かれているわけです。ですから、むやみに一つにすると言うことでは、間の意味が見えて来ませんし、二つの間にも何も生じません。

 

今年は是非いろいろな状況で調和が生まれる様な事をいろいろと考えて行きたいと思っています。

このブログでも時々書いてゆきますのでどうぞよろしくお付き合いください。

皆様にとって午年の平成26年が良い年になりますように祈っております。

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