パコ・デ・ルチアのアランフェス協奏曲

2014年1月6日

今日は一月六日。キリスト教の世界では二つの大きな意味を持っています。

一つはイエスが洗礼を受けた日。もう一つは、この日にはるばる東方から三人の王様(賢者)が救世主の誕生を祝うために捧げ物を持ってやって来ました(ちなみにこれがその後のクリスマスプレゼントになったとも言われてもいます)。

この日に相応しいテーマはと考えていて、スペインのことが脳裏をよぎりました。

スペインはヨーロッパでありながら、ヨーロッパではない国。ピレネーを超えるとヨーロッパではないと言われる様に、どこかにヨーロッパとは違うエキゾチックなものを感じる国です。かつてスペインを支配したサラセンのイスラム教文化が色濃く残っているのが大きな理由でしょう。特に南スペインには随所に当時を偲ばせる建物があり(アルハンブラ宮殿など)、キリスト教文化一色の他のヨーロッパの国から見ると異国情緒が至る所に漂っています。

この国からは時々世界に大きな影響を及ぼした芸術家が排出されます。20世紀を見ると、チェロのカザルス、ギターのセゴビア、そして絵画のピカソとミロ、建築ではガウディーと言った人たちです。その人たちを生みだした原動力は一体何だったのでしょう。そんなことを考えていて、東方の王様が持ってきた捧げ物の一つなのではないか、そんな気がしてきました。

今日は音楽に限って書いてみます。

カザルスとセゴビアに共通しているのはドイツの作曲家、バッハです。バッハはプロテスタントのための教会音楽を精力的に作曲しています。晩年になって器楽曲を作る様になりますが、そこにも教会音楽で培われた音楽性が貫いています。無伴奏チェロ組曲もその一つです。カザルスはそれまでは見向きもされていなかったこの曲を、十年という歳月を費やし(独力でやり遂げて)世に送り出しました。セゴビアはスペインの民族楽器程度の評価しかないギターで無伴奏のヴァイオリンのための至難の名曲シャコンヌを弾いて世界を驚かせました。

チェロとギターの世界はこの二人によって今までとは全く違う道を歩み始めることになります。この二人がいなければ現在のチェロもギターもないと言えるわけですから、二人はそれぞれの分野で「ポイントの切り替えをした人」と言うことになります。

 

スペインは当時、東方の国サラセンから高い文化がもたらされました。そののちキリスト教文化がピレネーを超えてやって来て二つの宗教的文化が混ざることになります。サラセンのイスラム教文化とキリスト教文化が色濃く出会いその結果、当然アラビア人の血も混ざって、スペイン独特の文化が作られる土壌ができます。スペインでは黒髪の人がほとんどです。

 パコ・デ・ルチアというフラメンコのギターリストのことを取り上げます。フラメンコというのは踊りと歌と音楽が一体となったもので、起源はやはりサラセンの様です。

彼はフラメンコギター界では神様の様に言われている存在です。今年66歳。演奏スタイルは前衛的なジャズフラメンコと呼ばれていますから、フラメンコの世界で正統派と言うより異端的です。

フラメンコギター界の異端児が、ホアキン・ロドリーゴのアランフェス協奏曲を弾くと聞いたら皆さんはどう思われますか。彼がこの曲を初めて弾いたのはもう二十年以上前のことで、それがCDとなった時、早速買って、ワクワクしながら聞いたのを昨日のことの様に思い出します。

当時のクラシックギター界、フラメンコギター界としては画期的なことでしたから、結構センセーショナルに報道されていました。敢えて似た例として取り上げれば、演歌の歌い手とか民謡の歌い手さんがオペラのアリアを歌う様なものと言ったら解っていただけるかと思います。とんでもないことなのです。どちらの側からもブーイングがあっておかしくないものなのですが、意外だったのはこの演奏に対しての賛否の比率でした。勿論否定的なものもあったのですが、大かたが高い評価を下していたのです。フラメンコの演奏家が弾いたクラシック音楽という「もの珍しさ」からではなく、それはパコ・デ・ルチアの演奏の中に聞き手の心に迫ってくる素晴らしいものがあり、もしかするとそれが新しい演奏の可能性を予感される様な演奏だったからなのかもしれません。

あれから随分時間が流れました。彼の演奏は今でも、著名な演奏家を含む十数人の演奏を聞いた後でも、最高の演奏だと思っています。最近はyou tubeで聞けるので是非聞いてみてください(Paco De Lucia Concierto de Aranjuezで検索してみてください)。

セゴビアでフラメンコ的な民族音楽のための楽器ギターがクラシック音楽の世界の仲間入りをしたのが今から八十年ほど前のことです。ただ仲間入りをしただけでなく、クラシック音楽の中にあった旧来の考え方を変えるほどの出来事でした。私にはパコ・デ・ルチアの演奏が新たな衝撃的な刺激となってクラシック音楽の世界に居座っている習癖を改革してくれるといいと願っています。

 

パコ・デ・ルチアは、フラメンコの世界では当たり前のことですが、耳とハートで音楽を身につけた人です。楽譜のない世界で音楽をしてきたということです。クラシック音楽の様に楽譜を見ながら音楽をする習慣の中に居る人には想像が付かないものかもしれませんが、全く楽譜のない音楽の世界もあるのです。楽譜を見ないで演奏する。それは暗譜で演奏するというのと違って、始めっから楽譜がない音楽があって、それを耳で聞くだけで覚えて、心で感じることをそのまま音にします。耳と心を修練すると言っていいかもしれません。心で感じているものが力となりギターの弦をはじくのです。

楽譜があるのがいいのか、悪いのかと言うことではなく、楽譜がなくても音楽はあると言うことを想像していただきたいのです。口伝と言うのか耳伝と言う形です。余談ですが、耳伝された音楽は1000年後もほとんど同じものとして残っているのに比べ、楽譜によって残された演奏は短期間の内に変化してしまいます。

パコ・デ・ルチアの演奏は何度も聞いても飽きないのです(私だけかもしれませんが)。飽きないどころか深い感銘が聞くたびにあります。生々しいリアルな音楽体験と言える様な新鮮さが至る所から聞かれるのです。それは歌う様にとも言えるし、踊る様にと言ってもいい、実に生々しい音が私の中に飛び込んでくるのです。しかもその音は常識的なクラシックギターの演奏法からすればよくないものと扱われている類の音でした。そんな弾き方をしてはいけないと言われている様なものでした。しかし彼のはじく弦から生まれる音の中には特別なものが宿っていました。

私を震いあがらせたあの音、あの音楽は、耳とハートで作り上げたものだと気がつくのにしばらくかかりました。それまでは楽譜がない音楽のことを考える機会はあまりなく、パコ・デ・ルチアの演奏で初めて楽譜からではないクラシック音楽を聞き、その生々しさに打ちのめされてしまったのです。今はそう整理しています。

まさに目から鱗、大声で叫びたくなる様な感動に目頭が熱くなってしまいました。霊感を伝わって降りてきた異次元からの伝言だったのかもしれません。

 

心で感じている音と、ギターを通して音となって流れ出す音。この間の深いつながりをパコ・デ・ルチアは知っていたのです。それ以外には考えられません。それは子どものころから耳と心で音楽を聞き続けることで鍛えられた何かです。私たちが子どものころに言葉を文字なく覚える様なものです。耳で聞いた言葉を覚えて行きます。その様に音楽を覚えることもできる筈です。私たちが母国語を文法など知らずに自由に喋ることができる様な自由さがパコ・デ・ルチアの演奏から聞こえて来るのです。

耳で聞く訓練、言葉にしてしまえば簡単そうに見えますが、実は大変なことがそこで起こっているのです。その大変なことが魔法の音を生みだしたのだと信じています。

耳から覚える音楽。そこに秘められている大きな力、それはもう一度考え直していいことなのではないのでしょうか。

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