御雑煮とか、結婚相手を哲学すると

2014年1月10日

情報のことを書いてみます。

何かにつけて情報は便利なもので、何かをしようとする時、あるいは金額の張った買いものをしようとする時などには側に置いておきたいものです。実際に参考になりますから。

ところが逆に、情報が溢れていてそれに振り回されてしまいそうになることはありませんか。情報過多はインターネットの時代の大きな落とし穴だと言われて久しいですが、解っていてもどうすることも出来ないようところがあります。どうしてでしょう。実は私たちは情報が大好きなんです。好奇心の塊だからです。ここはしっかり覚えておいてください。極端になると情報を持ってさえいれば安心できるという人間になってしまいます。麻薬みたいです。

情報はお金に似ています。一つでも多くの情報を持っていることが、現代人の豊かさのステータスになっているところがあるのではないか、そんな気がします。

便利なのが情報と言うものですが、情報と言うのは実は何処まで行っても他人事なんです。そこはわきまえる必要があると思います。情報は知識ですから、持っているに越したことはないですが、知識を背中にしょったリュックサックに詰め込んで生きたとしても人生が豊かになる保証はどこにもないのです。ここがお金とよく似ているところです。沢山持っていても使い方を知らなければ宝の持ち腐れです。使いこなせないと意味がないのです。

 

人生の豊かさは、他人事を自分事、つまり自分のものにした時から始まります。

 突然ですが御雑煮の話しをします。お正月ですから許される範囲にあると思います。

ある時、まだ独身の頃の話しです。ドイツでドイツに居る何人かとお正月だから御雑煮を作ろうと集まったことがあります。結論だけ言うと、御雑煮と言うのは何人かが集まって一緒には作れないものだということです。

だしは何で取るか、お餅は丸かそれとも四角か、焼くか焼かないのか、更に中に入れる具は。話し合えば話し合うほど話しがこんがらがっていきました。この時点で御雑煮が食べられるかもしれないという期待は皆の心の中から消えてなくなりました。「そんなのお雑煮ではない」と三人ほどが捨て台詞を吐いて去って行きました。

御雑煮についての情報をGoogleで検索してみてください。みなさんが本当に食べたい御雑煮には出会わないでしょう。一応検索してみましたが1500位はあるようです。でもみんな他人のお雑煮でした。美味しそうに写真に写っていますが、好奇心から食べてみたいとは思っても、お正月を祝うために食べたいと思う御雑煮はありませんでした。その御雑煮を食べても、きっとお正月が来たという実感はわかないと思います。

ちなみに我が家のお雑煮は、だしはカツオ、味はしょうゆ味。お餅は四角で、少し焦げ目がつくくらいに焼いて少し煮ます。中に入るものは八つ頭、大根、三つ葉とホウレンソウです。その家その家の味があるので、母の実家は全く違う御雑煮だったと記憶しています。

Googleの1500種類の情報としてのお雑煮は他人事です。自分で食べ付けている御雑煮にしなければ、本当の意味で御雑煮にはならないということです。

 

また話しが変わります。

先日若い友人夫婦が四つになる男のお子さんを連れて遊びに来ました。その子が突然「お嫁さんってどうやって見つけるの」と言って大人たちを困らせました。改めて言われると答えに窮してしまいます。大人たちは「なるほど、そう言う風に問うことができるのか」と言わんばかりにお互いに、どうしていいのか解らない顔つきで見つめ合っていました。

それは答えがないからです。思春期まで答えを待たなければなりません。思春期になればおのずと答えがやって来ます。

思春期の頃、星の数ほどいる異性の中に、たった一人の人が現れるからです。そうです現れて来るのです。そもそも見つけようとして見つかるものでしょうか。みなさんご自身のことを思い出してみてください。向こうからやってきた様なところはありませんでしたか。見つけたのではなく、見つけられたと言った方がいいのではありませんか。

見つけられたなんて言うととても消極的な感じがしますが、実はそうではなく、見つけたと思っている物の多くは、もしかしたら、いや、本当は見つけられたのではないかと私は思っています。

情報もよく似ています。案外情報というのは、自分が必要としている情報というのは向こうからやってくるのではないのでしょうか。

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