月曜版 1 小津安二郎的日本映画

2014年3月24日

日本の映画が視覚以外に音楽的な世界を一緒に作ることを教えてくれたのは小津安二郎の映画でした。小津映画の持つしなやかさは音楽的で、露骨さの反対で控えめです。

ここではかつての日本映画界の名監督小津安二郎を小津さんと呼ばせていただきます。

小津さんの映画を知って以来映画を見る目が変わりました。映画だけでなくものを見る目に変化があり、人生観まで変わったといっていいほどです。 映画にも人生観を変える程の力があったというのは、小津さんによって教えられたことでした。

そして音楽以外で音楽的なものと何か、そのことも同時に深めました。

世界が初めて日本映画を評価したのは黒沢明監督の映画でした。それに影響されてだと思うのですが、それまでは黒沢映画を優れた日本映画として見ていたようです。ですから小津さんの映画をはじめて見た時は迫力に欠けて正直物足りなさを覚えたものでした。

そんな中でもなんとか小津さんの世界を味わえる様になって行きました。黒沢映画とは逆の角度から物事を捉える姿勢は新鮮でした。自分の中に一番自然に生きているものを直に感じていました。暗示的な物の言い方です。それが音楽的なものとして私に語りかけて来たのでしょう。

 

小津映画の持つ暗示する力、そこから生まれる深さに日本的なものを感じます。映画の中のセリフには直接的な言い方は一切登場しないですから、外国で上映される時、字幕には何も出ていないことがしばしばです。いつも間接的、暗示的ですから他の言葉に訳しようがないからです。

昨今は韓国ものが随分日本に入り込んでいますが、映画らしいといえば映画らしいのでしょうが見ていて疲れます。ずっとスポットライトが当っている舞台の様なところがあり、それで疲れるのだと思います。翳の部分を上手く取り入れないと芸術性が損なわれてしまうと個人的には考えています。先日書いた足し算引き算というブログの文章のことを思い出していただければ、引き算の掌握ということになるかもしれません。わびさびの世界とも関係があるかもしれません。

わびさびと解った様ないい方をしてしまいましたが、本当に解って言っているのかと聞かれたら、ちょっとしか解っていないかもしれません。解っているのかもしれませんが言葉で説明できないだけかもしれません。引き算的な要素がある様な気はしますが、思い込みでしょうか。

日本人だと日本のことは上手く説明できないものです。それは自分のことが自分では上手く説明できないのと同じです。自分のことを他人に上手にべらべらと説明しているのを聞いていると背筋がぞっとして、鳥肌が立ってきます。「わたしってこういう人」とよく耳にしますが、それは全くの主観です。

私はドイツで生きています。当然いろいろな人から日本についていろいろと聞かれます。答えに窮することがしばしばです。しかしまともに答えたい様な質問が本当に少ないことも事実です。

逆に彼らに日本のことを聞いてみると、日本のことなど全然解っていませんから驚くばかりです。

日本のことを日本人以外の人に解ってもらえるものをこれから書いて行かなければならないのだと思うのですが、解ってもらうには相手の土俵で相撲を取らなければならないのです。しかしこれはこれ以上難しいものがないほどの難問題でもあることはみなさんにも知っておいていただきたいものです。

 

 

 

 

 

 

 

コメントをどうぞ