水曜版 4 衛生と病気  

2014年4月23日

健康、健康と口にするのは簡単でも、突き詰めてゆくと空気のようなものです。

貧乏でもいいから、お金がなくてもいいから、健康が一番、何がなくても健康でさえあればという切なる願いです。

願うのに健康は、漠然としていて、捕らえようがなく、よく言えば包括的なことのようです。

この二月に父を失ってから強く感じるのは、世話を受けながら生きていた父を見ている時には解らなかった「父の存在」で、失ってからひしひしと感じられるようになりました。生きていてくれるだけでよしといえる何かがあります。生きて対話してくれることがどんなに素晴らしいことだったのか、父を失った母が今一番切実に感じていることだと思います。

失って始めて解るのも健康です。

 

以前にテーマにした病気は健康と全く違い、病気を科学の対象だとすれば、健康は世界観の問題です。

では衛生とは。きれい好き、清潔、潔癖症などのイメージと重なってくるのですが、純粋に科学的とは言えない、好みの部分があります。客観的と主観的が混ざっています。とはいっても衛生というのも解りやすいもので、ある種の規準で以って計ればいいことです。 

そこで衛生と病気との関係はどんなものか考え直したい気持ちが起こりました。

衛生的というのは大事なことです。不潔なところでは病気の原因になる病原菌が発生しやすいからです。清潔にしておけばとりあえず健康でいられます。日本は清潔を重んじる国で、外国と比べると何処を見てもきれいで清潔です。新幹線の駅などは舐めても平気な位きれいに清掃されています。それが普通になって他の国を旅行すると衛生感覚の違いに、その不潔さに先ず驚かされ、耐えられずに帰る人もいます。

しかし衛生管理がしっかりできていることが健康につながるというのはあまり当てにならない考え方で、衛生が健康のために必要な環境であるにはちがいなくても、衛生=健康ではなく、この二つは別の所から考えられなければならないものです。

不潔と病気ということになれば、なんとなくつながりがある様に思えるのですが、よく見るとこれも一概には言いきれないもののようです。その昔、三木成夫さんの本を読んだ時に、昔の子どもは、ハイハイをするようになると汚い畳を舐めていたと書かれてありました。畳の間にあったバイ菌を食べて健康を作っていたというのです。凄いことを堂々と書くものだと驚いたのですが、今はそうなんだと納得していくす。

お味噌を作る方が、お味噌の上にできるカビは昔はお味噌の中に混ぜ込んだものですよ、とおっしゃっていました。

長生きしたければカビの生えたパンを食べろと読んだことがあります。

カビはバイ菌程ではないですが衛生の目の敵ですから、衛生的な考え方からしたら許しがたいものです。ところが人間生活を経験的に見れば、カビもバイ菌も生きてゆく上で役立つものと考える方が正しいようです。当時アトピーと呼ばれている皮膚病、アレルギー性のものは今と比べ物にならないに程少なかったそうです。

 

毒は毒を以って制すというのはどうも本当のようです。

今はやりのホメオパシーは随分歪曲されて一般社会では知られています、本来は毒は毒を以って制すという考えから生まれたものです。ホメはホモのことですから同じということで、ここでは同種と訳されています。

この毒ですが、老子の「道徳経」では「育てる」という意味です。たいていの医薬品は量を間違えれば毒です。それが適量になると薬となるのですから魔法の様なものです。ヨーロッパの中世では薬を作る人たちは錬金術師の様なものだった訳です。薬剤師はあぶない人たちなのかもしれません。

美しいものには棘があるというのはただ棘に刺さって怪我をするだけで役に立たないものですが、毒は違います。毒が病気を治してくれるのです。人間も毒気のある人の方が社会的に役に立つのかもしれません。いつもいい人ぶっている人は間違った健康感を生きているようなものと言っていいようです。

 

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