木曜版 5 生まれ変われるか哲学 

2014年5月1日

哲学するというのは現代生活の中でとても遠くにある様です。ちょっと覗いてみます。

日本を代表する哲学者西田幾太郎は、哲学者はタバコを吸わなければいけないと言ったそうです。名言です。

明治、大正、昭和の初期を生きた彼の時代は生活に情緒があり、喫煙は紫煙をくゆらせるものでした。タバコが悪者扱いされ、タバコを吸う人はまるで犯罪者の様に見られてしまう現代では、タバコを吸う哲学者はいる場所がありません。それに現代人のイライラしたタバコの吸い方はどう見ても哲学向きではありません。

哲学は結論を出すものではありません。結論に至るまでの道程ですから結論に飢えている現代は苦手です。その上結論が出るとしても時間がかかるので、時間的な余裕が必要です。時間に追われる現代社会に相応しくないものです。

人間が哲学するようになってすでに三千年近くなりますが、その間哲学は順風の中にいたのかというとそんなことはありません。一度も哲学が栄えたことはなく、哲学はいつもマイナーなものでした。それでも生き延びてきたのはそれなりの理由があるのでしょう。

哲学は合理的な見方をしたら何の役にも立たない遊びです。無駄そのものです。人間社会を管理社会、機能社会にしようとすれば哲学はいの一番に葬り去られてしまいます。

現代は個性個性といいながら、意外と一人一人が違うことを阻止しようとするものが教育の中にあります。哲学はお互いの違いを尊重します。ですから違いを認めたがらない現代の教育の中では生きにくいものです。

 

とはいっても哲学が人間に必要なものなら、どんな社会の中でも生き延びる道は見つけられるはずです。哲学は見えないところで頑張っているはずです。人間はそのための場所を探すものです。

新しい哲学が必要なのです。きっとユーモアに支えられた哲学です。哲学者は笑い上手でなければいけないと言った人はいませんが、私はひそかにそう思っています。

人生を極めたら笑いに到達するはずです。哲学はそのためのお手伝いをするものですからやはり笑いが欠かせません。勿論極める人は少ないですが、途上の人にしてもだんだんと深刻さが消えて、笑いに変わって行きます。心の余裕に通じるものがあるからです。とはいっても、下品な笑いはガツガツした人向きで哲学ではありません。

眉間にしわを寄せた難しい哲学から、にこにこした微笑みのある哲学がこれから求められているのでしょう。

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