金曜版 5 美しい言葉、正しい言葉

2014年5月2日

美しい言葉遣いは正しい言葉遣いを知っているだけでは使えないものです。文学が存在するのは美しい言葉への憧れがあるからです。

もう一つ突っ込んで言うと、正しい言葉遣いは厳密にいえばないのです。

言葉というのは曖昧なものです。使う人によっても違いますし、歴史的に見て時代時代で言葉遣いは変わって来ます。変わっていなければ日本人は縄文時代の人たちと今でも話せるわけです。あるいはそれ以前の人たちともです。

変わって行くものですから、時代の流れの中でどう変わってきたのかを検証できて、言語学に興味を持っている人にはにはとても楽しい研究材料が沢山あります。自国の古い文化資料が読めないことほどつまらないことはありません。これは貧しさにつながります。お隣の韓国では漢字が読めない人がほとんどですから、自国の歴史を当時の資料で検証できないのです。情けない話しです。それでは今の自分の位置づけもできないことになってしまいます。

 

ある時質問を受けたのです。日本語の正しい言い方を勉強したいのですが何処でできますか。その方はドイツ人で何年か日本にいて、その間に日本語を勉強したということでしたが、いつまで経っても日本人の様には話せていないというギャップを感じていたそうです。文法はマスターしていました。発音もまあまあでした。そういうことではなく、日本人の様に話せるにはどうしたらいいのかということでした。私は迷うことなく日本人で生まれるしかないですよと答えました。

外国語をネイチャーの様に話すのは並大抵の努力で出来るものではありません。出来ないと考えた方がいいほどかもしれません。

方言も同じで、勉強して出来るものではないのです。

 

イギリスの作家が、自分の本がいろいろな言葉に翻訳されることを考えると、複雑な英語を使わない方が翻訳者に親切だということを言っていました。それで簡単な翻訳しやすい表現を選ぶというのです。翻訳しやすい様に書いたからと言って、必ずしも正しく翻訳される訳ではないのに、とその話を聞いていてがっかりしてしまいました。そんなのサービスでも何でもないはずです。言葉への侮辱というのはきつい言い方ですが、一つの言葉にはその言葉でしか言えないものがあるのです。それは否定すべきものではなく、他の言葉では絶対に言えない言い方を楽しまなくてはいけないと思います。違うということを恐れる風潮があるのでしょうか。

 

日本文学の研究者でコロンビア大学で教鞭をとられ、沢山の日本文学を翻訳を通じでアメリカに紹介され、3.11東北大地震の時に、混乱の中での日本人の行動の素晴らしさを見て、日本に帰化されたドナルド・キーン氏がある対談で言っていたことです。私は泉鏡花は訳しません、あの文章を日本語で読みたかったから日本語を勉強したのです。

 

私はカズオイシグロの「日の名残り」を、英語のよく出来るドイツ人の力を借りて読んでいます。プロローグに一年以上かけました。勿論日本語の訳も読みました。アンチョコとしてではなく、全体を感じるためにです。ドイツ語でも読みました。日本語の訳は原文の英語のニュアンスがとてもよく伝わっていたように思います。翻訳が素晴らしいのです。ドイツ語では読めませんでした。執事の心の中を描写しているところなど、心理学の分析の様な感じで、数ページ読んで投げ出してしまいました。この本、ドイツではほとんど評判にすらならなかった訳が理解できました。翻訳は時間をかけないと良いものにならないのに、商業上の理由で急がされているのではないか、なんだか同情したくなる様な翻訳でした。

 

残念ながらある言葉の中に潜んでいる微妙なところは、感じることはできても翻訳できないものなのでしょう。

意味は伝えられても言葉の美しさは感じるしかないものです。しかし言葉の美しさが意味を正確に伝えるのに大きな力になっています。

美しい言葉、何処で学べるのでしょう。

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