月曜版 6 続・文化と文明、物作りの意味

2014年5月5日

文化と文明との違いを考えながら、少し新しい考えが見えてきたので書きます。

文明という枠の中の中心は便利だと確信したのです。文明という流れに入るとそこには便利を執拗に求め生活は加速度的に便利になって行きます。そのために道具の発明があったのです。法律も、大昔は法典などと言いましたが、所詮道具です。極めて知的な道具だとは思いますが。しかし道具ですからそれをうまく使えばいいわけで、悪智恵の働く人間がどんどん法律の隙間を縫って悪いことをするわけです。これも文明の一つの姿です。

便利は悪いとは言い切れないはずです。しかし便利に比例して人間は怠け者になっているのは確かです。そして便利に比例して仕事、労働とのかかわりが薄れて行きます。田畑を鍬で耕していた時、お百姓さんたちは土と真正面から向かい合っていましたが耕運機ができてすっかり変わってしまいました。仕事は楽になったのでしょうが、仕事の充実はどうなったのでしょうか。

 

人類史の中の最大の変化は産業革命です。それまでは道具に磨きをかけ、いい道具を作ることに精を出していたものです。その時の道具は今でも使われています。包丁はその一つです。のこぎりも、鍬も、裁縫の針だってそうです。釘、金槌、鑿、鉋、やすりと今でも使われているものですが、多くは機械にとって代わられたものがほとんどです。そしてその結果、大量生産が始まりました

産業革命では、先ずは機械が発明され、次にその機械を動かす原動力の発明が拍車をかけます。蒸気で巨大な機械を動かすことができて蒸気機関車ができ、ダイムラーがエンジンを作り、自動車が走り、ついには電気という画期的な原動力が発明され、世の中は一変してしまいます。人力以外の力で物事が進んで行く時代の到来です。これが現代文明です。便利を追い求める勢いは実は今でも衰えていないのです。

 

便利の一つに、何でも早くというスピード化がありました。ファーストフード、早く食べられる食事です。新幹線の様な超特急、今はリニアモーターに向かっています。何でも早く、スピーディーにというのは文明が執拗に追い求めるものです。が、それだけが文明を支えているわけではありません。文化は文明とバランスを取る様な形で生まれるものです。イタリアで生まれたスローフードはとても興味深い出現ですが、ゆっくりに固執する必要はないと思います。文化というのは温故知新、古いものを大切にしながら、実は前に進んでいるのかもしれません。熟するというプロセスが文化を支えます。ものを作るというのはそういうことです。日本は文明化の中で物づくりを見捨てませんでした。物作りの中で育つ物を知っていたからでしょう。日本の物づくりの伝統はただものではないようです。創造する力が想像力に結びついてゆくのでしょう。それが新しい時代の能力として認められるのです。

 

文明は物を基盤にして、物に執着します。文明は物質的な繁栄だけを目指せばいつか幕を閉じるのでしょう。でも文明から文化がうまれました。人間の偉大さです。人間はものは熟すこと、そのために時間が必要なことに気が付いたのです。それは物作りの中心に生きているものです。

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