言葉について思うこと その二  

2014年5月29日

好きになった人に自分の気持ちを伝えたい時、どう言ったら今の自分の気持ちを好きになった人に一番伝えられるかと悩みます。あれこれと自分が知っている一番美しい言葉を選ぼうとします。ああでもない、これは駄目だ、こんなこと言ったら逆に嫌われてしまうかもしれない、云々。

しかし実際にその時が来て、いまここで言わなければその人と離れ離れになってしまうかもしれないという状況の中で、それまでに考えてきた言葉を簡単に言えるものではありません。もし劇のせりふの様に言ったらどうなるかはみなさんの経験からよく解っていると思います。

 

シュタイナーは芸術について語るというのは、大好きな人のことを人に話す様なものだと言います。この文章に接してから今日まで四十年近くになりますが、彼の言葉はずっと私の心の中に生き続けています。

芸術を分析して学問的に話すのは、好きな人を心理的に分析している様なものです。親から好きな人のことを聞かれて説明する時、医学的に説明しても何も伝わらないものです。身長は体重は持病はなどからは大切なものが伝わらないのです。聞いている親もうんざりしてしまいます。その人の家系図などを持ってきてもやはり好きな人がどういう人なのかの一番大切なところは伝わらないでしょう。皆さんならどうなさいますか。

 

芸術を学問の対象にするというのは、医学を宗教の対象にするようなものです。きっとどちらも間違っているとは言えないのかもしれません。というのは、今を去ること何千年か前は医学、学問、芸術は全て宗教者によってなされたものでした。秘儀参入という儀式を通って霊的・精神的な世界に触れ、そこで日常とは別の世界のことに通じた人たちによって担われていたものでした。現代社会は知識、情報の支配する世界ですから秘儀参入のことなどすっかり忘れてしまいました。霊にしても精神にしても学問的に説明がつく範囲で認められていますが、私たちに都合がいい様に辻褄が合わされているだけなのかもしれません。

更に学問は学問、宗教は宗教と分かれてしまい世界を総合的に見る見方は失われてしまいました。

そんな中で芸術の立場、芸術にどの様に接するのかというのはとても難しいことになっている様な気がしています。

現代的風潮としては芸術は学問的に語られます。芸術の歴史、芸術の発展形態、美学的観点からといろいろにいわれていますが、押し並べていえば学問的です。正確に把握できると学問は信じていますが、それはきっと思い込みで、好きになった人を正確に描写したり、説明しても、何かが言い足りていない様なものです。

芸術は医療的にも活躍していて、特に最近はその効用が注目され評価されて芸術治療という分野は世界的に随分と広がっています。癒すという考え方はそもそも宗教に属するもので、かつては秘儀参入者によって行われていました。ドイツ語の治療して治すという言葉は聖なるというHeilから来ています。治癒する力を芸術の中に見るのは芸術を宗教的に見ているのです。

芸術を芸術として語るというのが現代にはすっぽり抜けています。先ほどシュタイナーの言葉を紹介しましたが、彼の言いたかったことは、芸術を芸術として語るという道に通じているのではないか、そんな気がします。

 

沈黙はただ何も言わないでいるのとは違い、そこには言いたいことが詰まっています。勿論個人差のあるものですが、いずれにしろ沈黙は空っぽとは違います。

私たちが言葉として使っているのは主に用事を足すためで、その段階で言葉は記号的です。それは頭で考えられたのでしょうがパズルを解く様な言葉です。あるいは造花の様な言葉と言ってもいいかもれません。コミュニケーションの道具として使われる言葉もそこに属しています。辻褄だけはあっているのです。

言葉になる前の状態が沈黙です。シュタイナーによると、言葉は自我の静寂の中から生まれるそうです。やはり沈黙の中から生まれると言っている様に思います。種から花になるまで植物が時間を必要としている様なものです。沈黙から生まれる言葉、それが芸術を語るための最低条件です。沈黙には時間が生きていて、その時間の中で言葉が成熟します。

余談ですが、ある講演の中で、言葉は沈黙のしずくと言ったことがあります。それを聞かれた主催者の方にその後しばらくしてお嬢さんがお生まれになりしずくと名付けました。その時始めて言葉とは美しいものだと感じられたそうで、その時感じた様な美しい人間になって欲しいとの願いを込めてしずくと名付けられたそうです。

 

沈黙から生まれた言葉には輝きがあります。その輝きは一人一人違っていて、それを本来は個性というのですが、どうも最近の個性は装飾品の様になってしまいました。造花的と言ってもいいのかもしれません。その輝きが人と人とをつなげていて社会が成り立っているのだと思うのです。芸術によって私たちが受け取っているものは、見えない形で、しかも無言で人と人とをつなげてくれるものだからこそ、人間社会にあって欠くことのできないものなのではないか、そんな気がするのです。

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