音楽の静けさ - R.シュトラウスの「あした」 

2014年8月27日

久しぶりに音楽のことを書いてみたくなりました。本当に久しぶりの様な気がします。

この所リヒャルト・シュトラウスの「あした」という歌をよく聞きます。「モルゲン」、あるいは「Morgen」との方が知られているかもしれません。

シュトラウスの歌の中で一つだけを選べと言われたら迷うことなくこの歌です。

ピアノで伴奏されるのと、オーケストラの伴奏がありますが、私が好きなのはピアノのほうで、上手な伴奏からはアルペジオが呼吸しているように聞こえてきます。

 

簡単に言ってしまえば恋の歌です。ところが恋している人が歌われるわけではなく、かと言って失恋が歌われているのでもなく、恋する二人の和解という何とも難しいところです。こんな感じです。

愛し合う男女が喧嘩をしたのでしょうか、気まずさのなかでも手を取り合って砂浜を歩きます。地平線に向かって青い空が広がり、太陽に温められた砂浜を言葉を交わすことなく歩いて行きます。突然立ち止まって、無言のまま見つめあっていると、妙なる静かな時間が流れ、その時二人の間に、今まで知らなかった新しい愛、祝福された沈黙が通い始めたのです。

和解のプロセスだけでなく、愛も沈黙も、人生の一番深いところのものです。私たちの感情生活の中に頻繁に現れてきますが、源泉は手の届かない深いところにあって、芸術といえども音楽だけがかろうじて表現を許されているものです。

聞きどころは、言葉なく見つめ合う中に存在する沈黙です。

古今の歌い手たちが好んでコンサートのプログラムに取り上げて来ました。録音も多くYou Tubeでも沢山の歌い手たちの聞き比べが楽しめます。

 

繰り返し聞くのはレオ・スレーザークです。残念ながらこれをYou Tubeでまだ見つけていません。

スレーザークはこの歌を静かに歌います。沈黙も愛も希望もとても居心地がよさそうです。私は境地だと思っています。静けさが歌全体を包んでいます。ごくごく薄いガラス製のグラスのようです。力を入れたら壊れてしまいます。歌唱力、表現力といったものとは縁のない歌ですから、相当の力量がないと歌いきれません。正真正銘の力量が必要とされます。本当に大変な力量が要求れていると思っています。逆説的な言い方になりますが、いかに歌わずに歌いきるかというとんでもない音楽性が要求されるのです。スレーザークの歌は、歌わないで歌うもっとも成功した例です。

 

ジャネット・ベッカーの歌をジェラルド・ムーアがピアノで伴奏しているのを聞いた時にも深い感動を覚えました。
彼女の歌は無重力の中を歌いきっていました。ベッカーとムーアの演奏は、音楽が心の中に溶けてしまったようでもあり、歌の中に自分が溶けてしまいそうな瞬間があったりします。とりわけジェラルド・ムーアの演奏は魔法で、光に満ちた空間の中を繊細な襞となって流れます。無重力空間の中を静かに生きている現実が泳いでいます。その名伴奏と一つになりながら歌全体が静かな時間を作りだすのです。これはYou Tubeでも聞けますから是非聞いてみてください。

 

無重力という言葉はわかりにくいかもしれませんが、静けさのことです。

静けさというのは独特なもので、周囲に振り回されて生きている人には苦手な人が多いものです。静かな中にいたら身が持たないと言う人もいます。静けさの中で逆に落ち着かずにイライラしている人もいます。自分と向き合ってしまうので怖いと言う人もいます。

子どもはたいがい静けさが苦手です。周りが静かになると逆に騒ぎ出す様な子どももいます。

 

楽しかった、面白かったという体験は心の糧です。笑うこともです。同じくらいに静けさが大切だと言うことを知ってほしいのです。静けさを知ることから心に中心が生まれます。逆に心に中心のある人は静けさを備えています。

この中心が心の、感情生活の軸であり、要で、これがないために心は病気になると言ってもいいのかもしれません。鬱、統合失調症などは心の軸、要に問題が生じているのでしょう。

 

 

リヒャルト・シュトラウスの「あした」で、スレーザークの歌やベッカーの歌とムーアの伴奏を聞くと、雑多な日常生活から解放され、異次元の時間と空間の中に自分を置くことができます。その異次元の中で心の充実を感じます。心の中に中心が据えられ、また生きてみようか、と勇気が湧いてきます。

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