ファンタジーの力とフィクション、そして未来を作る力

2015年9月9日

ファンタジーは現実離れと訳されてしまうことがあります。白昼夢のように起きていても夢を見ているようにぼんやりしていたり、現実から逃避する手段になったりして、現実主義者たちからは白い目で見られているからです。

現実主義は事実を大切にします。事実に基づいて考えます。事実が現実なのです。ところがです、事実を事実として捉えるには事実と言われているものに付随している不純物を綺麗に取り除かなければなりません。大変な作業です。大抵はそこを素通りして安易に事実だと信じ込んでいるだけのことがあることは忘れがちです。事実の信憑性は厳密でなければなりません。さらに私たちが事実と呼んでいるものは、誰かの手で手直しされて私たちの前に登場していることが多々あるので要注意です。事実とは信じているほど事実ではないのかもしれないのです。そんな曖昧な事実を現実と呼ぶのも現実離れしているのです。

 

私はファンタジーをとても評価しています。ファンタジーから生まれるものの中で興味を引くのはフィクションと呼ばれているものです。作り話しと言われメルヒェンはその中の代表的なものです。小説に登場する人物たちも実在しない人たちですからフィクションです。それならば、フィクションは嘘ではないか、そう考える人も出てきますが、実際はそんなに簡単なことではなく、私たちが事実と信じ込んでいた現実の方が嘘で、フィクションの中の嘘のような作り話が別の次元で凝縮され、真実を伝えるものに生まれ変わったりしているのです。もしフィクションが単なる嘘八百からなる作り話ならとっくの大昔に消え去っていると思います。私たちの先祖は、作り話の中に真実を読む力を持っていて、それを大切にしてきたので、今日まで読み継がれたいくつものフィクションがあるのです。もちろん同じ力が現代の私たちの中にも生きています。

 

歴史の本と言うのは何度も書き換えらてきました。これは事実です。以前の史実とその後の史実が違うということはいくらでも起っているのです。以前ブログに、historyはhis-storyという事で、時の為政者たちの都合で書かれたりするため、為政者が変わると歴史の中身まで変わってしまうということを書きましたが、それは実際に起こったのです。そして今も起こり得るのです。

しかし何百年も前に書かれたフィクションはそのまま、時には現代語に訳されながら読み続けられるのです。繰り返しますがそこに何らかの真実が潜んでいるからです。時代の制約にとらわれることなく、のちの世代の人たちにまで読み続けられるのです。ある民族的な文化の基盤をすら超えて別の文化の中でも通用する真実が息づいているからなのです。フィクションに普遍性が宿ることがあるのです。

 

 

フアンタジーから生まれたフィクションの大切な道具は暗喩です、暗喩は比喩の一つで、もう一つの比喩は直喩です。直喩の方は日常生活で遭遇するでいろいろなものを、「何々のような」という言い方で比べたりして使っています。直接的ですからわかりやすいものです。ところが暗喩はくせものです。暗喩で比較されたものは、お互いに線で結ばれてはいるのですが、直喩のようにすぐに理解できないことが多いからです。実際に存在しているものに譬えるのですが、そのものの現象的なところを比較の対象にするのではなく、そのものの本質を引き出してきて譬えるので、含みが多くなってしまいます。途中で、結ばれている線が突然見えなくなってしまうこともあります。それで暗いという意味が使われて暗喩なのです。暗喩が読み取れないと現実離れしたものに見えてしまうので、フィクションは現実離れした、という意味にすり替えられてしまったのです。

 

直喩は直接的という以上に、物質的な譬え方なのです。すぐにわかる、一目瞭然が命です。単純と言って差し支えないとおもいます。暗喩は見えない糸で心の中でしか繋がらないもので、物質的に考える人たちにとっては、あるようなないようなという曖昧なものです。実は複雑なのです。暗喩は心の中にあってはれっきとした現実ですから、暗喩は心を鍛えてくれるものだということを強調したいとおもいます。脳生理学的にいえば、シュナプスがいくつも伸びて行くのです。そこで鍛えられた能力は、日常生活にあって物事を理解する力に生まれ変わって行く、かけがえのないものだということ加えておきます。物質中心に考える傾向が強い現代社会は合理的な考え方に傾きます。合理的な考えにはいつも何の役に立つのかという問いがふくまれています。そしてそれにふさわしい答えがどこかにあるのです。ところが一見、何の役にも立たない、無用に映るファンタジー、そこから生まれたフィクションが、心に栄養を補給していることを考えてみてください。直喩の場合と違って答えのようなものはないといってもいいかもしれません。

だからこそ、そこから未来を作る力が育つのです。そんな風に私は考えています。

 

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