目を閉じるとよく見える

2012年5月3日

絵画も彫刻も建築も映画も、今目の前にあって、私はそれを見ています。

目を閉じてしまえば一瞬にして消え見えなくなってしまいます。

しかし、絵が消えてしまったわけではなく、ただ見えなくなってしまっただけの話しです。

彫刻は手で触って、その物によりますが、手ごたえで感じることはできますが、鑑賞としては不完全です。

建築至っては、柱を触ってもその家の様子は解りません。

音楽は始めから見えないので、目を閉じても大丈夫ですし、時には、却って、わざわざ目を閉じて聞いたりします。

余計なものを排除して、音に集中したいためです。

音楽は目に見える世界とは無縁です。

 

ある時粘土のワークショップの時です。

700グラムの粘土を手で、しかもほとんど指先だけだけを使って球を作りました。

1000グラム、一キロでは女性には重すぎるので700グラムでやりました。

十分、ないしは十五分という時間をかけて丁寧に粘土を球にして行きます。

口でいう程優しいことではなくて、ある程度球に近くなるまでは順調に行きます。

しかしある程度球になってそこからもっと完成した球にしてゆく過程に入ると仕事はなかなか前に進みません。

小さなでこぼこが気になりはじめます。

そこを修正しなければ、きれいな、完成した球にはならないわけです。

作業をしている人の間に変化が始まります。

そのあたりから目を閉じる人が増えて来ます。しばらくするとほとんどの人が目を閉じています。

この球作り、実を言うと、いつまでやっても完成しないのです。

ですから適当な時間、作っている人の疲れが出る前に、こちらからストップをかけます。

何故目を閉じたのか聞いてみますと、

         「その方がよく見えるから」

という答えが返って来ます。見ない方が見える世界があるということです。

         「繊細なところは見ていて見解らないのでめを閉じてやった」

という人もいます。

 

音楽が見えないものだということはみんな知っています。

どんなに音が大きくなっても音は見えません。

目の玉が飛び出すほどの大きな音も、見えた訳ではありません。

音楽は見えないのだ、見えないものなのだというところ、もっと深く理解する必要があると思っています。

球作りが教えてくれるように、見ない方がよく見えるものがある、繊細なものは見ない方がよく解る、ということです。

音楽は見えないのです。

音楽はものが見えなくなるところから始まります。

何を意味しているのかと言うと、繊細な世界に突入するということです。

そこからはただ繊細な感性だけが頼りです。

 

人と出会う時努めていることがあります。

見える部分ではなく、つまりその人の身なりなどからではなく、見えない部分を見ようということです。

名刺などは一番見えるところですから、そこから離れるようにします。

外的なものが失せると、だんだんその人の見えない部分が見えてきます。

時にはその人から音楽が聞こえてくることもあります。

それはメロディーであったり、調性であったり、あるいはリズムであったりとしますが、音楽です。

その人が音楽に変わってしまうと、次にあった時に、不思議とその人のことをよく覚えています。

そういう経験が度重なるにしたがって、出会う人ばかりでなく、出会う「もの」にも音楽を聞くようにしています。

本なども意味内容よりも、最近は音楽として聞いているようです。

 

 

 

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