痛みとサトリ、あるいはカルマ

2012年6月6日

痛みは私たちに何かを伝えようとしています。

怪我をしたり、蜂に刺されて痛い時には必死ですが、しばらくして痛み取れると達観するわけです。

痛みには使命がある、無駄に痛みがあるわけがないと。

 

とは言うもののできれば痛い思いはしたくないのが人間です。

進んで痛い思いをしに行く人はめったにいません。

痛い思いをするは避けて通るものです。

 

痛みの持つこの矛盾、ちょっと気になります。

何かあるはずです。

探ってみたいと思います。

 

痛い時にはその痛みに取り巻かれるように自分の中にいます。

真っただ中にいることもあります。

周囲が、他の人が全然入って来ません。

しかも自分を庇っています。

 

逆の見方をすれば、こんなに自分自身でいることはないとも言えます。

痛みはどうやら人間に自分という意識をもたらすものの様です。

 

痛い思いをした時のことを思い出してみてください。

みなさんそれぞれにいろいろな痛みの経験があると思います。

痛みの中で自分というのは普段よりもずっと意識されます。

痛みイコール自分ということではないのですが、痛みから自分という意識は強化されます。

 

その他に自分を意識する時はというと、他人と一緒にいる時です。

でもその時の自分は夢見る様なぼんやりとした自分です。

痛みによってもたらされる自分は強烈な意識のもとでです。

 

ということはです、痛みを避けるのは、自分という意識を避ける様なものと言えるのです。

人間は何処かで自分に目覚めたくないのかもしれません。

 

しかし痛みで目覚める自分という意識、よくよく眺めてみると内向的です。

自分を庇い、自分の中に閉じこもっています。

痛みの中にいる時、外から入って来るものは痛みを増幅しますから遮断します。

お腹が痛い時には何も食べられません。

 

痛みが無くなった時の解放感、身が軽くなる感覚はなんでしょう。

いたみと共にあった自分という意識は消えてしまいます。

その代わりに、生きていることが明るく感じられます。

あの痛みを経験した後はもう何も怖いものがないという感じです。

 

痛みを感じている時は自分を庇います。

自分意識が強くなると自分を庇おうとするものなのです。

痛みが無くなった時の解放勘は、自分を庇う必要が無くなったからです。

内向する自分、自分だけの世界にいる自分で無くなったのです。

 

内向する逆ですから意識が外に向かっているのです。

外の世界とかかわる時、意識は明るいのです。

痛い時、つまり自分だけとかかわっている時、つまり自分の思いこみの中にいる時、庇っている時、意識は真っ暗です。

 

意識が外に向かったからといってそれだけで外が理解できる様になるわけではありません。

理解は別物です。

意識が外に向かうのは理解の始まりですが、理解は次元が一つ上です。

積極的に外の世界、他の人の中に入って行かなければならないからです。

それは自分と外の間の差を取ることです。

つまり差取り、サトリです。

他人の痛みがまるで自分の痛みの様に感じられることです。

サトリには幾つもの段階がありますからサトリはどんどん深まります。

勿論修行を積めばのことです。

自分と外の世界の間の差が全く無くなったら、それはすごいです。

本物の悟りです。

 大悟というのです。

 

人を導く人は他の人の痛み感じられる人です。

教師もセラピストも大袈裟な言い方をすれば人を導く立場の人です。

その人たちは人を強引に引っ張って行くのではなく、その人の持っている痛みから解放するのです。

人が人生的に抱えている内的な痛み/です。

それをカルマと呼んでいいのではないか、むそんな気がします。

 

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