演奏家たちの姿勢、オイストラフ、フォイアマン、ユジャ・ワン

2018年4月25日

演奏している時の姿勢はとても大切です。今日まず取り上げるのはロシアのヴァイオリニスト、ダヴィット・オイストラフです。

彼の何がそんなに印象深いのかというと、微動だにせずに演奏するところです。驚くほど動きがない人です。背も高く、体格も良く、太い幹がまっすぐ立っているようなのです。まるで樹齢何百年の大木が演奏しているかのようです。大地からこんこんと音楽が彼の立ち姿の内側を通って湧き上がってくる、そんな感じです。

動かない演奏家たちの演奏には大きな特徴があります。音楽の骨格がよく聞こえる事です。音楽には骨格があるのです。骨格のない音楽は骨抜きです。ですから私にとって音楽を聞くというのは、その音楽の骨格を感じることなので、音楽の骨格を感じさせてくれない音楽は音楽を聞く楽しみが無いだけでなく、ただ音が集まっているだけで音楽というものが聞こえてこないこともあります。

 

エマヌエル・フォイアマンという私が何度かこのブログでも取り上げたことのあるチェリストも音楽の骨格を聞かせてくれる演奏家で、残されている映像が証明しているように動かない演奏家でした。チェロなので座って弾いていますが、しっかり背骨を通った骨格のある音楽です。

体全身で音楽を感じ演奏した方が音楽が生きてくるということで、激しく動きながら演奏する人もいますが、私はそうは思いません。体を動かせば動かすほど、音楽は骨格から離れてしまいます。ここでいう音楽の骨格のことがわからないうちは表情付けに走り誤魔化すことがあります。それは人によっては演奏家の個性であり、音楽的解釈ということになるのでしょうが、音楽とは精神性のある深いものです。知的遊戯でいい音楽は生まれません。さらに今日では個性という言い方で重んじられていますし、歓迎されてもいますが、表面的なパフォーマンスに過ぎないもので、本当の個性とは知的遊戯の産物ではなく、もう一つ次元が上の静けさの中にあってさりげないものです。

動かない演奏家たちは音楽を解釈しているのでも、個性を主張しているのでもなく、音楽のための道具と化していて、それはある意味無私の状態で演奏していると言えるものなのです。演奏を純粋に音楽に捧げる、それは内的静けさからしか生まれないのです。

そのように演奏された音楽の元で初めて聞き手としての私は音楽に出会えるので、解釈された音楽からは演奏家のエゴに包まれた音楽しか聞こえてこないのがほとんどです。それは芯のない、ご機嫌を伺っているうるさいもので、もっというと音楽に失礼だと思う事すらあるのです。

 

若手の女性ピアニスト、ユジャ・ワン(王羽佳)の演奏をよく聞きます。You Tubeでたくさん見られますからぜひ見てください(yuja wangて検索した方がたくさん見られます)。その時ぜひ人間業とは思えない超絶技巧を物ともせず弾く彼女の姿勢に注意してみてください。どんな風に弾こうが姿勢を崩すことはありません。超絶技巧とは裏腹に非常にストイックで、余計な動きは一切なく、見せびらかしのパフォーマンスの落とし穴に落ちることもなく、淡々と何事もなかったように弾ききってしまいます。彼女は音楽の骨格を生まれながらにして知っていたかのようで、幼い頃の演奏にすでに不動の演奏が見られます。

彼女の演奏から生まれる音楽は、音量がどんなに大きな曲からも静けさが味わえ、透明感のある音質で安心して聴いていられるのです。彼女はまた伴奏者としても優れたものを持っていて、いつもパートナーとのバランスが良く聴き入ってしまいます。

 

今日は音楽の骨格などという普段耳にしないことについてお話ししましたが、音楽に限らず、精神文化の底辺を流れている思想だと思いますので、これからも折に触れて書くつもりです。また今日取り上げた音楽家以外にも骨格を知っている演奏家はまだまだいますので機会あるごとに紹介してゆきたいと思います。

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