「軽み」の秘密、もしくは霊的な力

2012年6月24日

軽みと言う言葉にとても惹かれています。

動きのある芸能の世界のことが言われる時によく耳にします。

 

漢字を見ると「軽い」の「軽」と同じですから、基本的には軽いこと、軽量を言おうとしているのでしょう。

しかし、軽みは、軽いとは違います。

軽さとも違います。

軽い、軽さは単純に軽いことを言っているだけですが、軽みには、別のものを感じます。

それはプロセスです。あるプロセスを通して軽くなった、そう言うことの様です。

ただ軽い動きのことだけでなく、到達したところで軽くなった、軽さに達した動きです。

 

浄瑠璃で人形が動いている時に、まるで人が動いているのではないかと錯覚することがあります。

初心者がが人形を操ったり、動かしたりする時には、地に足がついていない様な軽さがあります。

上手になるにしたがって安定した動きが見られる様になります。

しかし浄瑠璃の人形の動きは次元の違うものです。

存在感と、安定感と、躍動感の全てが同居しているからです。

それが軽みです。

 

「み」と言う接尾語は他では、重み、上手み、巧み、面白味み、悲しみ、などの様に使われます。

そもそもは中身、「なかみ」のことだと言われています。

私はエッセンスと解釈しています。

西洋から哲学がは入った時、エッセンスに「本質」という訳語があてられました。

 「彼の芸には軽みが出てきた」は、意味としては「芸に味わいとか、深みが出てきた」だとと思います。

普通に言う「深まった」という言い方で収めないで敢えて軽みが出たというのは意味あってのことです。

 「あの人の芸は重い、重厚性がある」。それはそれで十分褒めているのですが、まだ最上級ではありません。

軽みが最上級の褒め言葉です。

 

私は「み」は美にも通じるものだと思っています。

美しい、あるいは輝いているということが言われている様な気がするのです。

何か内側から輝くものが光始めるのです。

 

軽みに達するには何かの力添えが必要です。

その「何か」にとても興味があります。

しかし言葉にしようとすると、限界を感じます。

地上的な筋肉の力の様な物でないことは確かです。

目の前にあるものを指して「これ」と言えないものです。

 

その力は霊的な力です。

霊という別の次元の世界からの何かが働いているのです。

精神力という言い方をする人もいますが、精神力には人力、あるいは自力、あるいは意思、悪く言うと根性がかかわっています。芸を極める途上ではそうした力が必要ですがそれで本質を極めることはできないのです。

本質に迫ると軽いのです。

真に迫れば軽いということです。

そこは地上的なものを超えた無重力の世界です。

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