シューベルトという不思議な風。その四(協奏曲をめぐって)

2020年3月22日

シューベルトはほとんどのジャンルに曲を書いているのに、協奏曲というジャンルだけには触れなかった、なぜ彼は協奏曲を作曲しなかったのか、気になるところです。

シューベルトはヴァイオリンもピアノも弾いたようです。上手だったのでしょうが、プロの演奏家として通る技量は持ち合わせていませんでした。そのため自分で独奏者としてオーケストラと共演できなかったから協奏曲がないのだと考えられています。確かにそれも一つの要因でしょうが、私は別の理由があるように思えるのです。

 

音楽的な質を見ると、シューベルトの音楽は、どこから来てどこへ行こうとしているのかの輪郭が弱い音楽です。それは協奏曲というコントラストをはっきりさせなければならない音楽、オーケストラと対話しながら組み立ててゆく音楽とは無縁の音楽だと言うことがわかります。独奏者はオーケストラと対峙させられています。協奏曲には独奏者の主張という要素が欠かせません。このような音楽の質的要素が、協奏曲を持たない作曲家としてのシューベルトを考える時に自然な感じです。

 

 

シューベルトはそもそも音楽会という形式にも疎かった人で、作品の発表の場は、特に歌は、彼の友人たち、知り合いの人を呼んで催していた、シューベルティアーデでした。そこに集まってくる詩人たちの詩に曲を付けた歌が随分あります。そうした詩人たちは名声からは遠いい人たちでしたから、シューベルトは無名の詩人の二流の詩に曲をつけたという言い方がされてしまいますが、それは間違っていると思います。

詩として素晴らしい詩が必ずしも歌のテキストとしてふさわしいかというとそんなことはないからです。モーツァルトのジングシュピール魔笛に感動したゲーテが、同じテーマで文学的な脚本を仕上げたのですがそちらには誰も音楽をつけようとはしませんでした。シューベルトは知人の詩を読んで、そこに彼らの人生が生きていることを感じたに違いないのです。単に抽象的な詩の言葉から、たとえそれが美しいものだとしても、きっと人生を感じなかったに違いないのです。シューベルトは知人の詩人たちの言葉づかいの癖まで知り尽くしていたはずです。そこから見えてくる人生、彼らが歌おうとした人生が懐かしかったのだと思います。

このような歌の誕生は珍しいものです。シューベルトはシューベルティアーデで自作の歌を自分で歌ったという記録があります。それを聞いた人たちは、「シューベルトが歌ううたが一番良かった」と口々に伝えています。シンガーソングライターの先駆けだったのです。

友人たちの音楽の集いシューベルティアーデ、このような音楽の楽しみ方は、シューベルトが初めてではなく以前にもみられたものでした。有名なのはイタリアの作曲家フレスコバルディー(1858-1643)のフレスコヴァリアーナです。音楽が商業的な価値に組み込まれる前の、音楽を親密に分かち合うあり方がそこにみられます。音楽や文学を愛した人たちが集まって音楽を楽しんだわけです。商業的に見ればもったいないということになるのでしょうが、シューベルトの音楽を聴いていると、できるならば私もそこで聴きたかったという思いが募ってきます。仲のいい友達に囲まれながら演奏できる、そして仲のいい仲間たちと一緒にそれを聞くなんて、音楽の理想的な、一番豊かなあり方のような気がします。

 

シューベルティアーデには時々有名な音楽も来ていました。ウィーンのオペラで歌っていたフォーグルもその一人です。彼が初めてシューベルティアーデに来てシューベルトの歌を歌った時の話は有名で、シューベルトの出来立てのまだインクが乾き切っていない楽譜を手に取り、鼻歌で軽く歌いながら、「いい曲だが、ハッタリが全くないじゃないか」と言い放ったということです。しかし何度も歌ううちにシューベルトの歌の虜になってしまいます。そして彼の歌を当時のウィーンの音楽界に広めるために一役買うことになるのです。

 

さてさてシューベルトと協奏曲の食い合わせをまとめなければなりません。

シューベルトの音楽には、フォーグルがいうようにハッタリがないんです。そして主張する音楽というより、消えてゆきそうな音楽ですから、対立し主張し合う協奏曲には向かなかったのです。

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