シューベルトの不思議な風。その五 (無重力ということ)

2020年3月26日

日本語と西洋語とは比べようがないほど別のものです。二つの言葉で生きていると実感します。

実は日本語だけの問題ではなく、日本語以外にも同じような言葉は現代でも存在しているのです。

井筒俊彦(22の言葉に通じていた、稀有な日本人です)がいうように、いくつかの言葉には西洋語にはない要素を持ったものもあるのです。原始的な言語といういささか乱暴な言い方をされている言葉のことなのですが、そこには、現代社会を作った現代の西洋語からは想像できない別の働きが、言葉の中に生きているのです。

 

西洋語が現代社会を作ったのです。当然のことですが、現代社会を生きるにあたっては実に便利な、そして唯一有効な言葉と言えます。日本語は、もちろんその原始的な言葉もですが、現代社会では生きにくい言葉なのです。

 

日本語と一括りにするのは、本当は無理があります。そこのところをしばらく見てみたいと思います。

明治以降、西洋との接触から編み出された翻訳語を中心にした、西洋化した日本語と、いわゆる大和言葉と言われている伝統的日本語は、両方とも日本文字で表記できるので同じように見えますが、本当は別の言葉と言った方がいいくらい違います。文法的な構造に関しても大きく変化したとは言えないので気付かないのです。

 

実際にどのように違うのかというと、西洋化した日本語は西洋語のように合理的であろうとしています。そして醜いですが説明のためにあくせくしていて、伝統的日本語の中にある情緒、風情、さらには非合理性、呪術的な側面が失われ、機能的な言葉、機能中心の言葉になってしまいました。

伝統的日本の言葉の中にはマジック的要素が見られるのです。一つの不思議と言えるのではないかと思います。それが日本の中で和歌の伝統が失われることなく生き続け、俳句を愛する人が絶えない理由です。

余談ですが、西洋には、和歌に託して心情を吐露する日本的な伝統はありません。日本社会では労働者と呼ばれている人たちにも和歌で語れる人がいるのをヨーロッパの人が知ると仰天します。考えられないのです。こんなところを見ても、西洋化とした日本なのに実はそれは表面的なところだけの話なのかもしれません。

 

文字の起源を見ても魔術的なもののようです。漢字の世界に今までは考えても見なかった、呪術性を唱えた白川静もどこか似た言語感性からの仕事のような気がしていて、これからもっと勉強してゆきたいと思っています。

そこには今常識となっている理解、説明できる、割り切れる理解、合理的な理解とは全く違う理解があるのです。それを現代社会は理解と呼ばなくなってしまっても、実はそれも立派な理解と言えるものなのです。折口信夫の世界から解き明かすしかない理解があるような気がしてならないのです。

 

文明社会からすると、原始的と言い捨てられてしまう、呪術性のある言葉は特殊なものに写りますが、本当は逆で、記号化した、説明に汲々としている辻褄を合わせることに汲々としている現代社会を作った現代語、西洋語こそが、長い歴史の中では特殊な言語なのだと私は考えています。現代語の基本にある考えは人間を記号化するということです。記号かされた言語は血の通っていない言語ですから、そこから作られる社会も血の通っていない、ただ機能だけが優先するしゃかいです。

 

シューベルトの音楽は合理性を求めてはいません。それもシューベルトが西洋社会でなかなか評価されない理由です。さすがに呪術的とかいうおどろおどろしいものは、合理化された西洋音楽のシステムの中で作曲せざるをえなかったので聞こえて来ないかもしれませんが、私が一つ注目したいのは、シューベルトの音楽が持つ無重力です。無重力性です。無ベクトルと言えるかもしれません。

合理的な世界から遊離しています。そんな無重力は言語の世界ではマジック、呪術性と言えるものではないかと思います。音楽の無重力と言語のマジック、二つは同じように生きているように思います。

 

音楽と無重力なんて今までの音楽史の中では取り沙汰されることはありませんでした。唯一それらしきことが言われるのはサティーの音楽を語る時です。

私の友人で、車を運転している時にラジオから流れてくるサティーの音楽を聴いていたら、自分が空を走っているような気がしてきたとサティー体験を語ってくれた人がいました。彼はそんな気がしたというどころの話じゃなくて、本当に空を飛んでいたんだ、と言って今でも譲りません。

余談ですがサティーもいささか神秘的なところがあって、神秘的な新興宗教の教祖様でした。ただ信者さんは彼一人という規模の小さい宗教団体でしたが、とりあえずは教祖さまだったのです。彼が何を神秘的と見ていたのかは定かではないのですが、超感覚的というよりは無重力的神秘と言いたくなります。無重力はそれだけで立派にしんぴです。

 

おそらく物理学的には重力というのは非常に複雑なものなのでしょうが、とりあえず私たちの日常生活の範囲で考えたら、無重力などというものはほとんど存在しないのです。そんなものがあったら空中に浮いてしまいます。ヘリウムガスの詰まった風船のようなものです。空想上の存在とも言えます。

何を考えているのかわからないような人間がいますが、ここで言っている無重力のようなものを感じます。

夢はもちろん無重力です。白昼夢もです。

現実味がない話も無重力です。

 

シューベルトの音楽は、今まで盛んに論議されていた、古典派かロマン派かでは語り尽くせるものではないのです。それは、彼が無重力派というものだからです。これはようやくサティーの音楽が掠めていったくらいで、まだ十分にわかっていない音楽の歴史の中の「一派」ですから、いつの襲来かわかりませんが、将来だんだんと見えてくるものかもしれません。未来派と言っていいかもしれません。

シューベルトは重くなりすぎた西洋音楽、実はここでも合理的な説明に縛られているのです、その思っ苦しいものから逃れようとしているのです。無重力派として一人で奮闘しているのかもしれません。

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