ラジオの思い出。ラジオは文化に貢献できると思います

2021年4月30日

みなさんはラジオとどんな付き合いをしたのでしょうか。

最近聞いたのですが、NHKがラジオ第一と第二を一つに統合すると考えているらしいのです。それを聞いたときにとても悲しい思いがしました。私はラジオファンを自称しているからです。

もちろんテレビは見ません。ビジュアルなものにあまり信頼を置いていないからです。その代わりラジオはよく聞きます。ラジオには押し付けがなく、聞き流しもできるし、言葉への配慮を感じているからです。そんなところに文化の香りが漂っているからです。

音声伝達は誤魔化しが効かないと思っています。一見は百聞にしかずは今の社会通用しなくなっています。映像は編集され伝達されていますから、基本的には嘘だと言ってもいいほどです。メディアという巨大企業の好き勝手が映像で伝えられていると言っても過言ではないと思います。思考を操作するための道具に成り下がっています。視覚によって固定観念は押しつけられやすいもので、洗脳的効果すらあると思っています。

 

余談ですが、私の祖父は明治23年(1890年)、横浜の生まれで、子供の時から野球に親しんでいたそうです。当時はベイスと言って(ベースボールを省略した言い方です)、東京よりも早くから横浜では子どもたちがベイスに親しんでいたのだそうです。92歳で亡くなるまでラジオで野球放送を聞いていたほどの野球ファンでした。その祖父は「テレビで見る野球放送はつまらないね、ラジオの実況中継の方がワクワクするよ。試合が見えるようだよ」と言って、私たちと一緒にテレビで野球放送を見ることはありませんでした。

 

そうなんです、ラジオには不思議なワクワク感があるのです。私のテレビに犯される前の僅かなラジオ体験は「赤胴鈴之助」です。あれはラジオで聞いていました。「小癪な小僧、名を名乗れ」「赤胴鈴之助だ」という台詞は今でも耳にこびりついています。そこには赤胴鈴之助の姿がありました。彼の動きも見えていました。過不足なしの素晴らしい世界でした。

トラックの運ちゃんたち、職人さん達がラジオをよく聞いています。ヒッチハイクで乗せてもらったトラックには必ずラジオがかかっていました。茶の間でも、当時は多かった専業主婦たちがラジオを聴きながら家事をしていたようで、お便りの紹介、リクエスト番組などにも盛んに投稿されていたようです。人と人とをつなぐ不思議な力がラジオにはあります。イマジネーションで補っているので膨らみがあるのでしょう。

オーディオブックの無かった時代は、深夜に聴きながら眠ってしまったことがよくありました。民放で始まった深夜放送は青春の思い出です。ラジオで聞いたことは聞き流しているようでそうではなく、意外と心に残っているものです。ラジオで聞いた本の名前はとても気になって、しばらくすると本屋さんに注文していました。

中学の頃に買ってもらった小さなラジオで聞いた音楽に何度感動したことか。コンサートで聴くのとは違った感動でした。あの時聞いたモーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」は目から鱗でした。小さなラジオからの音でしたが本当に綺麗でした。私のクラシック音楽好きが開花した瞬間です。

ドイツに来て、短波放送の入るラジオを買いました。そして日本時間の毎日朝の一時間放送される海外向けの番組を(ドイツでは深夜になるのですが)、よく聞いていました。そのノスタルジックな放送は残念ながらインターネットの普及で10年ほどまえになくなってしまいました。天気の悪い日は電波が乱れて聴きにくかったのですが、そんなことは大した問題では無かったのです。

そんなこんなのラジオの思い出です。そのラジオ放送が縮小されるかもしれないなんて、信じられません。

 

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