透明な感情とは

2021年1月4日

 

 

人と会うときにどこを見るかは人それぞれですが、社会的な地位などを見ているようでは初心者です。名前の前にぶら下がっている社長だとか教授だとか博士だとかに目が眩んでいるうちはまだ人が見えていない証拠です。

心が見えてくるようになると一歩進んだ感じです。その人の全体が見えてくるからです。社会的な地位などはその人の一部でしかないと言っていいと思います。ただ職業というのは不思議なもので、その人が全身全霊を込めていることもあるので蔑ろにはできません。ドイツ語でも職業を天命、「その仕事に呼ばれた」という言い方をするほどで、ただ金稼ぎをして生計を立てているのと区別します。残念ながら最近は時代が変わり職業の持つ深い意識は薄れ、職業すらもが金稼ぎの手段になってしまった感は否めません。

ところで、心が見えてくると、何が見えてくるのでしょう。先ほどはその人の全体と言いましたが、別のいいかもできて、その人の中心と言えるかもしれまません。心の理想的な姿は、「どんな状況のもとでも揺るぎないもの」なのですから、その人の中心と言う方がふさわしいかもしれません。心はその人の全体であり中心を形作っていますから、心に焦点が合うようになるとその人がくっきりと見えてきます。

 

その心ですが、知性と感情と意志とに分けて説明する人がいます。哲学の分野の人、心理学の分野の人たちです。私も心のことを考えるときによく使う手段です。ただ手段であって本質ではないので振り回されないようにしないとかえつて混乱の原因になります。

知的な能力が優っている人というのは、たいてい冷たいものが伴います。知性とは冷静さでもあるので冷たいとは抱き合わせになり、冷たいと言うのがその人の性格をいうことにもなります。ただ冷たい人が知的かというとその逆は必ずしも成り立たないようです。

意志の人は衝動的な人でもあるので、熱があり、熱い人です。直感的でもあるので掴みどころがないこともありますが、冷たいとは逆で人柄的には暖かいものを漂わせています。

こんな感じで「知・情・意」で心に迫ってゆきたいのですが、情、つまり感情のことを整理しないと先に進めません。感情というのは捉えにくいもので障害になっています。

どうやら知性とか意志のように独り立ちしていなくて、知性と意志の混ざり具合で感情が成立しているようです。つまり純粋感情というのはないということです。それなのに感情という呼び名が多く使われるのはなぜなのでしょう。私が思うに、心は結局は二つの極、知性と意志、の混ざり合いなのですが、全体として現れるときには感情という混ざり具合として現れるので、私たちが心と言う時は、大抵感情と言って、知性と意志の混ざり具合のことを総称して言っているからです。ということで心は大抵感情として捉えられているわけです。この視点からもう少し詳しく見て見ましょう。

将棋などの勝負師は感情的になることはご法度です。冷静でなければならないのですが、計算されたような冷静さでは却って型にはまってしまいます。意志的と言う言い方は紛らわしいので直感的と言っておきます。型を破るには直感的でなくてはなりません。最近話題になっている若手の棋士、藤井聡太さんは感情のしなやかさを持った棋士と言えるのではないかと思っています。普通感情的というと感情の起伏のことばかりに囚われてしまいますが、本当の意味で感情的というのは知性と意志とのバランスのことを言っているのですから、勝負師も思いっきり感情的である方がいいと言い換えることができるかもしれません。

もし感情を殺して生きている人がいたらその人はどんな人なのでしょう。想像するに、とても危険な人だと思うのです。感情を表に出さないのを非感情的と言うとすれば、感情を殺していきている人は非感情的です。周囲に感情的に反応ができなくなってしまう人のことです。感情を生きることを否定された状態です。否定しているのか否定されているのかはわかりませんが、感情を殺さざるをえない状況です。そうなると、生きることの中身がなくなってしまい、人生が無意味になってしまいます。無意味な人生を送るのではなく、送った人生が無意味だったと言うことです。血の通っていない人生です。温かみのない人生です。まずは対人関係で顕著になりますが、基本的には生きること全てに関わってきますから、いろいろな物事との関係が冷え切ってしまい、無関心が生まれます。人生で一番危険な状態です。

一つの思想にのめり込んで、政治的に突っ走る人たちに無感情を感じることがあります。ここで思想的というのは思考的に固まった人のことですから、融通の効かない知性人に多いわけです。彼らは感情の起伏の激しい人などはもちろん、感情的なものを全て見下しているようです。衝動的、直感的であることも見下します。そういう人たちは、自分の人間としての感情が機能していない分、言葉で感情的なことを巧みに表現します。模範的な、いやそれ以上に理想的で、合理的すぎて、聞いていると背筋がゾッとするようなことを連発します。初めて聞くともっともなことばかりですから「なるほど」と感心してしまうものです。まるで詐欺師のようにです。知性が感情をコントロールしようとすると人間関係をはじめとして全てが冷たくなります。無感情は極めて合理的なので無駄がありません。それは表情などにも現れていて、顔は清楚になり美人、ハンサムです。ですから、美人美男系の人には要注意です。

反対に意志が感情に関わってくると、衝動的でもあり直感的でもあり、熱が増し、行き過ぎると、人間関係にしろ、ものとの関係、周囲との関係にしろ、ごちゃごちゃになってしまいます。意志はもともと衝動的なものなので、非合理的で、混沌としているのは典型的な意志の反映です。

 

ところで、純粋に感情だけの状態というのに興味があるのですが、現実には不可能なのでしょうか。澄み切った水のような、澄み切った感情のことが知りたいのですが・・・。

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