結果を出すでは語り尽くせない、成長の意味

2021年2月20日

結果を出すという言い方は現代では当たり前のことなので、そこに異論も反論も挟むことは無謀なことです。結果のでないことなんかする意味がないというのが正論ということになります。

結果には原因があります。原因と結果は人組です。いい結果が出た時、そこにはそれを生み出した原因があるので、原因が分析され究明がなされます。現代社会はこの原則で動いているのではないのでしょうか。

この考え方は歴史を見ても言えるのかどうか考えるのは、暇潰しの余談でしょうが、一度は考えていいことの様に思います。歴史を見ると、今ほど結果にこだわる時代はなかった様に思います。何が今日の結果重視の考え方に導いたのでしょう。やはり「物」にこだわる世界観のもとで生まれた様に思えてなりません。

 

今というのは、単に過去の集約されたもの、過去が到達したものというだけでなく、今の中には未来が内在しています。ただ漠然とした将来、未来ではなく、今を次に踏み出す一歩の原動力という意味での未来です。結果重視の今が次の一歩をどの様に踏み出すのかにとても興味があります。

現在の常識の中にいるだけでは、今が見えていないかもしれないのです。常識はみんながその中にいるときは居心地がいいものです。ところが、実はそれが一つの落とし穴だと気づく人もいて、そこから抜け出すことを提唱することもありますが、その声はいつもかき消されてしまいます。それだけでなく変人扱いされるものです。

 

結果を求めるという今日の常識にも落とし穴があるのではないかと考えることは有意義多なことだと思います。

結果が出た後どうするのでしょう。結果は満足ですから、満足の後、次の結果に向かって動き始めるのでしょう。そこにこそ発展があるからです。発展はまた新しい満足を求めます。しかしそれは成長とは言えない様な気がします。発展と成長は違います。社会は発展はしますが、成長することはありません。人間は成長しますが、発展はありません。成長の不思議がここにあります。発展は外から見られているので外からの目が物差しが発展を判断します。成長は内側で起きていることなので、意識できないものです。

修行というのは精神的な訓練のことで、悟りを目指しています。悟と自分の成長とはどの様な関係にあるのでしょうか。もしかすると修行も外から自分を見ていることになるのではないかと思うことがあります。滝行、千日回峰行という過酷な修行があります。無事修行が終わると阿闍梨という位を得るわけですが、それを成長と見るかどうかは誰が決めるのでしょうか。

 

成長という言葉を発展という考えで包み込んでしまうと、成長は見えなくなってしまいます。なぜか。それはそもそも成長は見えないものなのですから、発展と同じ意味合いで成長を語ると、それは成長ではなくやはり発展のことになってしまうからです。

公園の大きな池でボートを借りて漕ぐとします。ボート乗り場でお金を払って、繋がれているボートに乗って、動き出す準備ができて、いざ出発となるのですが、中からボートを動かそうとしてもボートは動かないものなのです。内力は全く功を奏しないので、オールで漕ぐか、外にいる人に押してもらうしかありません。

成長はそんな感じです。自分で成長したと言い張る人ほど、単なる思い込みに過ぎないものです。

自分としては沢山の立派な本を読んだのだから、色々な訓練を受けたのだから成長したと思うのも、錯覚です、自己満足です。教養を積んだからと言って成長したとは言えないのです。知識は増えたかもしれませんが、それが成長につながるかどうかは別のことです。成長は次元の違うところで起こっていることなのです。成長とは、そうした知識、情報、あるいは何かの能力がついたという時点では語れないものなのです。成長のこうしたところを、いみじくも言い表しているのは、能役者の世阿弥が言う「離見の見」かもしれません。しかしそれも舞台に立ち自分の姿を瞬時に見ることに通じているので、成長をみる目とは言い切れません。

結局、成長を知ることも見ることも私たちはないのです。

 

成長なんかないのだというのではありません。あります。ただ外から私たちが期待する様な形としては見えないというだけです。中からは測る物差しなんかないのです。なんにも手応えがないので、ある意味で虚しいものです。しかし成長してる時私たちは感情的に豊かになっています。喜び、嬉しさという感情となって満たされたものが生きる中で迸り出ている時が成長している時です。

成長というのは実に無力なものなのです。達成感の様なものとも違います。結果というものもありません。また何の助けにもならないものです。それなのに人間には成長という営みが与えられているのです。人間として輝くためにです。

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