普遍人間学の翻訳の途中報告

2021年8月4日

遅々としてですが進んでいます。

当初から想像していたことではあるのですが、ドイツ語で言われていることの意味を伝えることと、日本語として熱を持って読まれる文章にするという、水と脂のように相入れないもどかしさの中にいます。

原文に囚われていると、日本語はとてもお粗末な文章になります。立派な翻訳調ですから、読んでいてよそよそしく感じます。

正確に意を汲んだという状態から始まり、だんだんと日本語にしてゆくと、日本語ではこうは言わないというものが何度も登場します。いわゆる直訳的な文章のまま放っておくと、読んでもよそよそしいもので、内容に臨場感が乏しい文章になります。かといって何度も推敲したからといって必ずしもいい文章になねという保証はないのです。

大事なのは文章が日本語であること、日本語的ロジックに収まっていること。それ以上に、文章同士の流れが不自然でないことです。文章間のロジックとでも言ったら良いのかもしれません。日本語だけ書いているときには出会うことのない、異文化との交渉です。私は文章の意味を文章における知性と考え、文章同士の繋がりは意志のような気がするのです。文章の意味と文章同士の繋がりがともにバランスよく収まらないと、文章を読む楽しみは半減します。

翻訳して、なんとか文章同士も繋がったと思ったものでも、次の日に読むと情けなくなるくらいがっかりするものもあります。人間ですからその日その日によって気分が違います。気分に振り回されるわけではないですが、やはり気分は大きな力です。

例えばワインの品定めをする時など、やはり気分が大きく作用します。絶対美味しいワインというのは無いわけですから、食事とどう合わせるかも大切ですが、その日の気分も結構美味しい不味いに影響するものです。

同じように絶対にいい文章などないので、文章の良し悪しにはムラがあるので、昨日のいい文章が今日もいい文章ということはないのです。その日の気分で書くこともあります。同じ文章でも昨日見えた景色と今日見える景色が同じでないことがあります。「なんでこんな文章で訳したのか」と自分の文章センスを疑ってしまうこともしばしばです。

翻訳の文章だけでなく、このブログの文章にしても、昨日書いたた文章を読んで、腹を立てていることもあるのです。自分で書いた文章がまるで他人が書いた文章に見えるのです。

 

しかし言葉はロゴスです。ロゴスですから数学とも共通するものがあるはずなのです。早く自分の言葉の中に数学的なものが生まれてくれたらと願うのですが、難しいものです。

翻訳のことを最後にまとめると、語学力、つまり外国語を読み取る力と、日本語の文章力との比率を考えてみました。3対7です。日本語で最後まとめる力が乏しいと折角正確に訳しても、貧相なものになってしまうのです。

と言うことでまだまだ戦いは続きそうです。

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